大和と出会って、もう少しで半年が過ぎようとしていた。―――息苦しさを感じて、目を覚ます。埃っぽさと喉の渇きに、ついつい咳き込む。薄暗くどんよりした、我が家とは違う雰囲気に疑問を感じ、辺りを見回すと、何故か自分が廃工場?のようなところにいると気づく。…なんでここに?起き上がろうとしたが、体の自由がきかない。意識がはっきりとしてくるにつれ、自分が大の字になって手足が拘束されていることを認識する。途端、頭がパニックになって、首だけを動かしてあいつの姿を探す。…けど。その期待を裏切って現れたのは、奇妙なマスクをしてエプロンを身に着けた、大きな体格の男だった。しかも、その手には、大きな鉈包丁。それが目に入った瞬間、これから自分の身に起こるだろうことが脳内を瞬時に駆け巡った。なんとか拘束を解こうと必死にもがくが、びくともしない。男は何も言わない。何も言わずに、近づいてくる。「――…ッ、何なのよ…、あんた…、わっ…たしに、っ、」引きつっていた喉からようやく声が出た。どうにか男の挙動を止めようと、言葉を発しようとするが、何を言えばわからない。何もわからない。この状況も、この男も、私も。頭を無我夢中で働かせるけど、この現状が変わる訳でもない。私が迷ってる間に、大男は私との距離を0に縮めていた。手に持った凶器が振り上げられる。
―――――「瑞穂!!!」その声を聴いた瞬間、喉の奥で空気を飲み込む音が聞こえ、体がビクついたのを感じた。目を開けると、そこには珍しく困惑したような顔をした大和が。「大丈夫か?すごいうなされてたぞ。」そう言われて気づいた。肩で呼吸をするほど息は乱れてるし、体中汗でびしょびしょで気持ち悪い。そのせいで火照った体が一気に冷えていった。慌てて自分の腕と脚を確認するも、当然それは全部、ちゃんとついていた。感触は残っていないが、さっきの光景は頭に焼き付いて離れない。思い出しただけで、ただでさえ早かった鼓動は、より大きな音をたてながらその間隔を狭めていく。頭の奥が冷え切り、体の底から、震え上がるような恐怖がこみ上げてくる。こらえきれず、咄嗟に大和にしがみついた。その体温を感じたことによる安心感からか、目から涙が溢れるのが止まらなくなってしまった。「やっ…やまと…っ、」情けなくも大和の名前を連呼しながら、必死にその体にしがみついた。子供のように泣きじゃくる私が落ち着くまで、大和は背中をゆっくりとさすってくれていた。
―――――「あーあ…もう…ほんっと恥ずかしい…。」学校までの道すがら、さっきの自分を思い出して顔から火が噴き出そうになる。「悪夢見て泣くなんて可愛いところあるじゃないか。」「うるっさい!!鼻で笑ってんじゃないわよ!!冗談抜きで本当に怖かったんだから!!夢の中とはいえ、殺されたんだからね私!!…あ。でもさぁ、そうやって馬鹿にする割には、結構心配してくれてたみたいじゃん?」そう言って隣の女の頬を突いてやると、「ぐずる子供をあやしつけるのって大変なんだな。」とか抜かしたので、その足を蹴ってやろうと―――避けるなよ!!
――――その日の夜。私が寝ようとベッドに入ったところで、唐突に大和が「枕の下に好きなものでも入れておいたらどうだ。」と言ってきた。「なんで?」「そうすると、それが夢に出てくるらしい。怖い夢見ないで済むかもしれないぞ。」「子供扱いすんな!!」ムカついたのでクッションを投げつけてやったところ、あっさりとキャッチされた。「でも、なんであんな夢見たんだろ。スプラッタ映画見たわけでもないのに。しかもやけに生々しかった。」「…夢なんて、所詮は脳の情報を整理する過程で生じる、バグみたいなもんだ。気にするな。また見ることになるぞ。」「それは…勘弁。」「それに、悪夢なんか一度見たらしばらくは見ないもんだ。もう大丈夫だろ。」「あんたは寝ないし夢見ないでしょうが。…ま、心配しなくとも、私はそんなに引きずるタイプじゃないから大丈夫だもんねー。じゃ、おやすみー。」時間が経ってみれば、本当に大したことのないことだった。たかが夢だし、あんな目に遭っても、今ならきっと大和が助けてくれるんだろう。特に悩むようなことではないと判断した私は、さっさと眠りにつくことにした。「…おやすみ。」
――――…あれ…ここ、どこだ…?虚ろな意識で、現状を理解しようと頭を働かせる。…何故自分がここに立っているのかはわからない。でもここが、学校の近くの、家からは遠い場所にある、いつも私が登下校で通る住宅地だということはわかった。でも周りには何故か誰もいない。昼の筈なのに辺りは暗くて、人の気配が一切しない。大和の姿を探すも、どこにも見当たらない。名前を呼んでも出てきもしない。声を出して気づいた。そういえば、住宅地だというのに音が一切聞こえてこない。どこか薄気味悪さを感じて、とにかく家に帰ろうと、家の方向へ足を踏み出す。すると、前方に人影が。服装から見るに学生らしい。でも、何か異様だ。様子がおかしい。目を凝らしてみて、その理由がわかった。彼は、何故かむき出しのバットを持っている。それを確認した瞬間、―――そいつと、目があった。それを皮切りに、頭の奥で警鐘がガンガンと鳴り響く。若干後ずさりした後、踵を返して進む方向を変えた。その途端、背後で奴が走り出したのがわかった。私もすぐさま駆け出す。後ろは振り返れない。とにかく早く、とにかく遠くへ、心臓がばくばくと音を立てているのがわかる。体は構わず勝手に前へ前へと行こうとして、足が何度ももつれそうになった。足音はいつまでたっても消えない。それに、どこまで走っても、人影は一切見当たらない。建物に逃げ込もうか、でも、そこで追い詰められたら終わりだ。走りながら考えを巡らせるけど、最善の解決策が見えない。どこまで走れば、見逃してくれるんだろう。大和がいれば、颯爽と現れて、あんな奴すぐにでものしてくれるのに。大和の姿を探すけど、いない。そうこうしてる内に、肩を掴まれ―――ると同時に、頭に強い衝撃を受けた。持っていたバットで、頭を殴られたんだ。いつの間に追いついてたんだ。気づけば顔が地面に接していて、上げた目は、太陽と、先ほど遠くに見えていた青年を捉えた――――やがて、痛みは意識とともに薄れていく。大和、どうして来てくれないの。必ず守るって、言ったのに。目の前でぼやける大和の像に触れようと、無事だったもう片方の手を彷徨わせる。真っ赤に染まったバットが、それを叩き落とそうとしていた。その時、私は、再び目を覚ました。
―――――「…大丈夫か?」テーブルの向かいで大和が険しい顔をしながら問いかけてくる。私は、両手で包んだココアに顔を近づけ、その湯気を浴びながら甘い匂いを吸い込んだ。「…大丈夫だけど…なんか、体中だるい。」私はまた、寝起きで大和に泣きついてしまった。…不覚。もう二度とやるまいと思ってたのに。「私も見たかったなー瑞穂が泣きじゃくるとこ。」となりでパンを食べながら面白がって言う憎らしい妹。「うるさいっ!!―――…まさか二日連続でこんな夢見るなんて…。あー…もう、最悪。」「夢見るってことは、眠りが浅いってことでしょう?瑞穂、また夜更かししたんじゃないの?」キッチン奥からお母さんが呆れたように言ってきた。「昨日はちゃんと早く寝たもん!!ねえ、大和?」「…」大和は昨日と違って、弄る発言をしてくることはなかった。眉間にずっと皺が寄ってて、何か考え込んでいるようだった。またその日の夜。私がベッドにも潜り込んだのを見て、大和が「大丈夫か」と声をかけて来た。その顔は、やはり硬い。「大丈夫だって!そんな顔して…どうしたの?心配し過ぎだよ!」その気持ちは正直少し嬉しかった。「…次は、殴ってでも起こすからな。」「…その方がありがたいよ。…もしまた魘されるようだったら、よろしくね。おやすみ、大和。」「…あぁ、おやすみ。」その日、結局私は、また悪夢を見た。やはり、無残にも殺される夢で、やはり、大和は現れなかった。しかも、魘される私に大和がビンタをかましてくれたにも関わらず、私は一切起きなかったらしい。
―――――「…今日、寝たくない…。」寝る体制を整え、ベッドの上に座りながらそう言う私に、隣に座った大和は、頭に手を乗せ、優しく撫でてくれた。大和の体温が私を安心させる。…でも。ここ最近悪夢ばかりで、寝るのが怖い。夢の中に入ってしまえば、そこに大和はいない。「でも…学校で眠くなると、困るから…。だから、…その、」こんなの、今どきの小学生だってやってないんじゃないか。「…一緒に、寝てくれない?」結局その日も、夢の中で死んでしまうまで、目を覚ますことは出来なかった。
―――――それから毎日、あのおぞましい悪夢を見た。睡眠は減り、体は疲労でいっぱいだった。「意識を強く保ちながら寝ろ。夢の中で、夢だと自覚する必要がある。そして、自覚できれば、今度は意識的に、目覚めるよう念じてみろ。」大和も何とかしようとしてくれたけど、どうすればいいのかわからない様子だった。何せ全部が私の夢の中の出来事だから。私が目が覚めた時の彼女の表情には、焦りが見え始めていた。そして悪夢は、日常生活にも影響を及ぼし始めた。誰かが私の後ろを歩くだけで、嫌な汗が噴き出して心臓の鼓動が早くなった。誰かと向かい合うだけで、足が動かなくなって呼吸が止まりそうになった。クラスの奴に肩を叩かれた。その瞬間、夢で見た内容がフラッシュバックし、腹の底から湧き上がる不快感と、吐き気が私を襲った。その人にごめんと一言言う間もなく、私はトイレに駆け込む。口の中からせり上がる異物と、酸っぱい鼻をつく匂いに涙で前が見えなくなる。保健室で休んだ方がいいと言われたけど、うっかり寝てしまえば、またあの夢をみるかもしれない。そう思うと、だるい体を無理やり起こしながら授業に出た。でも、少ない睡眠時間はそれだけ重い睡魔を呼び寄せる。教室で、座席に座りながら、私はつい、眠ってしまった。それがいけなかった。大和が教室に乱入して、私のこと攫ってそのまま家に連れ帰ったらしい。そんなことして、どうしてくれんの。私、明日からどういう顔して学校行けばいいのよ。
――――「…いいか、瑞穂、よく聴け。今からお前は、もう一度寝るんだ。」「…ぁ…、やっ、やだ、わたし、もう、寝たくない。」幼子のようにいやいやと首を振り、泣きそうになりながら大和に縋り付く。大和はそんな私の切羽詰った様子を見て、頭や体を撫でながら落ち着かせようとしていた。「…これまでのお前の夢は、お前がよく行く近所の中での話だ。もしかしたら、と思ったんだが…。とにかく、ここだ。ここまで来てみろ。そして、私に会え。」「そんなこと、出来るの…?」「…わからない。だが…私は人間じゃない。やろうと思えば、出来るかもしれない。…私を信じろ。」これまで大和が私を守ってきてくれたことは知ってる。改めて言われなくたって。「…わかった。」
――――目が覚めると、私は壁に寄りかかった形で座り込んでいた。両手が、頭上で縛られている。固い縄によって。…最悪の状況だった。これまでの経験から、最初に拘束されていた場合、そこから逃げ出せた試しはなかった。でも、やらなければ。誰かが来る前に、これを抜け出さなければ。きっと今度こそ、現実の私は憔悴しきって死んでしまう。周りを見渡すが、縄を切り落とせるような道具となるものはない。他の方法はと頭を働かせるが、この状況ではどれも無理そうだ。心を決めた私は、三度、深呼吸をする。…そして。手首が痛むのも構わず、抜け出すべく腕を動かし始めた。手の皮がめくれようが、血が滲もうが、引っ張り、捻り続ける。その箇所に、縄のイガイガが擦れて激痛が走った。でも、その動きは止めるわけにはいかない。自分が今どんな形相をしていようが関係ない。痛い。痛くてしょうがなかった。でも、体の一部が切り離されたり、捻り潰されたりするよりは、遥かにましだ。出そうになる声を必死に抑えながら、少しずつ、少しずつ腕を抜かせる。その縄と格闘して数分。縄からようやく抜け出せた。最期、勢いよく引っ張ったせいか、その反動で尻餅をついてしまった。息を潜めたが、誰も来ないことを確認して安堵する。突然の腕の軽さに、手首が取れたんじゃないかと錯覚し、慌ててそこを見やった。そこには、自分のものとは思えない、傷だらけ、血だらけの手があった。滅茶苦茶痛いし、視覚的にもとてもキツイものがあった。…でも。片方だけでもついていれば、それでいい。扉を開ける手が一つでも残っていれば、きっと。どうせ夢の中だと割り切って、体を起こす。ここにはまだ、誰も来ていない。今の内だ。今の内に、家に帰るんだ。そして、大和に会う。そう改めて決意した瞬間、体に緊張が走った。窓はなく、出入り口の扉一つ。先程と同じように深呼吸を繰り返し、ここを抜け出すべく動き出した。大丈夫。大和は、来てくれるって言った。私はそれを信じる。デパート火災に巻き込まれた時だって、絶望に浸っていた私を、あいつは助けに来てくれた。―――大丈夫!!一思いにそう強く決意をし、目の前の扉に手をかける。そして、扉を開けた時――その部屋の左側に、椅子に座った男が数人いることを確認する。私はそのままの勢いで走り出した。直線上には、出口。手が痛む。でも、そんなこと言っていられない。息が勝手に上がる。心臓が早鐘を打つ。男たちが呆けている間に、私は出口との距離を縮めた。ドアが遠く感じる。男たちが立ち上がったのだろう、左側から聞こえてくる物音が、更に私を焦らせる。やがて、出口にたどり着いた。でもここは、ゴールじゃない。スタートだ。そう自分を奮起しながら、急いでまたノブを回す。すごい。意外と痛くない。多分、緊迫した状況下で、痛みが麻痺してきてるんだ。人間、もしもの時は、やろうと思えばなんでもできるのかもしれない。ドアを出て、また走り出した。こんなに早く走れたんだ、というぐらい、早く走った。頭が勝手に早回転する。ぐるぐるする。吸う空気が冷たい。どこだ。ここ、どこだろう。目をギョロギョロと巡らせ、周りの建物の中に、自分の知っているものがないか、確認する。後ろを気にしている暇なんかなかった。とにかく、自分の知る道に出なきゃならない。でも、どこまで行っても、いつまで走っても、見慣れた道は出てこなかった。さっきの道だったのかな、もしかして逆方向だったのかな、なんて余計な考えが頭をよぎり出して、泣きそうになった。泣いたら駄目だ。唯でさえ視界がぼやけ始めているのに、泣きでもしたら何も見えなくなる。根性で必死に涙を止めて、どうすべきかに頭を切り替える。その時だった。とあるレストランが、目に飛び込んできた。アレ、確か…、昔家族で行ったことが―――――。そこからの私の行動は早かった。覚えてる。ここからどうやって帰ったのか。縋るような思いで、記憶の中にある道を追う。お母さんが、「今度はここに行きたいね」と行った洋食屋。お父さんが、たまに訪れるという居酒屋。豊里が、幼いながらに泳いでみたいと言った川。次々と、視界の端を通り過ぎていく。正直もう足は限界だった。お腹も心臓も痛い。喉の奥からは血の匂いもする。息はあがってる。でも、今、家に帰らなければ。二度と家族に会えない気がした。二度と、大和に会えない気がした。そして。…あった。ここに、あったんだ。家が、目の前に現れた。ここ最近、ずっと夢の中で焦がれていた場所。ついさっきまでいたのに、ずっと帰ってないような気がして、懐かしさと愛しさで、また泣きそうになった。あと少しの距離が、遠い。ゴールを認識した瞬間だった。自分の背後から聞こえる、いくらか重量のある足音が耳に入ってきた。…いたんだ、ずっと。追ってきてたのか。焦る気持ちを抑え、転ばない程度に急ぐ。玄関にたどり着いた。いつの間に距離を詰めたのだろう。すぐ後ろに、奴がいる。私は、扉を開けると、閉める余裕もなく、家の中に駆け込む。速度を落とさないように。大和がいることを信じて。足はパンパンで、躓きそうになりながら、血を吐く思いでなんとか私は階段を駆け上がる。いつ掴まれてもおかしくない距離だ。そして、最上段に足をかける。最期の力を振り絞り、一気に自分の部屋までの距離を縮めると、再び痛み始めた手首を捻り、ドアを開け――――そこに、飛び込んだ。
――――瞬間。この世界で、ずっと探し求めていた、あの黒色が目に飛び込んできて―――…私の後ろの奴を吹っ飛ばした。
――――眩しさに、ゆっくりと目を開ける。…なんで、カーテン閉めてないのよ…。開いてまず目に飛び込んできたのは、陽の光ではなく、大和の顔だった。「どうだ、目覚めは。」それは、ムカつくぐらい爽やかな顔。夢の中の出来事が、一気に頭を駆け巡ってきた。「…すっきり、って言うと思ったんだろうけど…。……最悪。」「それはなによりだな。」私の不貞腐れ顔に、大和は笑って乱雑に頭を撫でてくる。「…何よ。やけにテンション高いじゃん。私が元気になってそんなに嬉しい?」「あぁ。」まさかの素直な返答。心の底から安堵している、といった態度だ。夢の中の、最後の部分を思い出す。「…ありがとう、来てくれて。」「あぁ。」「かっこよかった。」「そうか。」「…やまと、」「なんだ。」「ちょっと、…その、お願い、したいんだけど、…」大和は何も言わずに、優しく抱きしめてくれた。私はその暖かさを噛みしめながら、また少し、涙が出た。大和と出会ってから、半年が経とうとしていた。