その次の日。―――豊里が、誘拐された。
――――平日、夕方。豊里が学校から帰らなかった。殆どの日、真っ直ぐに帰って家でゲームをするような子だ。友達と遊んで遅くなるにしても、必ず連絡を入れていた。そんな豊里が夜になっても音沙汰なく、家族が何度もスマホに着信を入れても、既読すらつかなかった。友達や、近所の人、名村兄妹にも問い合わせたが、誰も豊里の行方は知らなかった。豊里が寄りそうな場所を探しても見当たらない。名村兄が手配してくれたのか、警察の人が家に来て、捜索の手伝いをしてくれることになった。やがて、人通りの少ない住宅地で、豊里のスマホが発見された。そして。
――――秋津家一同が警察の人間と共に一度家で待機していた。両親も瑞穂も顔、を真っ青にして座り込んでいる。大和は、落ち着かないといった風に立っていた。その表情は険しい。―――…迂闊だった。瑞穂のことばかりに気を取られ、他への注意が疎かになっていた。瑞穂以外の不幸は察知できないという盲点を突かれた。…そんなこと、少し考えればわかる筈のことだったのに。「(…私のせいだ。)」そんな自責の念が頭を埋め尽くし、眉間に深くしわが寄る。と、同時に、この事態を、警察が未然に防げなかったことへの怒りも感じていた。自分への怒り、警察への怒り、豊里の身を案じる不安、恐怖、罪悪感、焦り―――…感情が、ぐちゃぐちゃにされるようだった。そして、瑞穂も同様に、『自分のせいだ』と感じていた
すると、突如家の電話が鳴り響いた。近くにいた瑞穂がそれに出る。「…もしもし、」『秋津豊里を誘拐した。』「…!!――――…大和…っ……!!」泣きそうな、絶望したような表情で振り返る瑞穂に、ただならぬ状況を感じ取り、背筋が冷える感覚を覚える大和。そんな瑞穂の様子を見て、警察の人間が複数人、秋津家の中であわただしく行き交い、準備をし始めた。誘拐犯からの電話をスピーカーにし、家族全員…そして、警察の人間も聞こえるようにした。「豊里を誘拐した―――…とは、どういうこどだ。」瑞穂に代わって、電話が載せてある台に両手をついて大和が質問する。その発言に驚愕する両親と警察の人間。警察はそれを聞いて、どこかに連絡しているようだった。『そのままだ。秋津豊里は、今ここにいる。』その声は機械音声のようだった。読み上げソフトか何かを使用しているのだろう。「…それを証明できるのか?」大和がそう訊ねると、何やら電話越しにごそごそと物音が聞こえる。『…何か喋れ。』「…」電話の奥からは何も聞こえない。「…ッ豊里なの!?」思わず瑞穂が叫ぶ。『…瑞穂、』「!豊里…!何、なんかされたの!?」『…まだ何もされてないから大丈夫。』その声には元気がない。不用意な発言は出来ないとの判断からか、恐怖で委縮しているからか、それとも…脅されて、”それしか言えない”からか。電話越しの声だけではその判断がつかなかった。「…ッ…」唇を噛みしめる大和。『この通り、”まだ”無事だ。』「…今、どこにいる。」『それは言えない。』その答えに、握り締める手に爪を食い込ませる大和。「――…何が目的だ。」『我々の要求は、身代金等ではない。』予想通りの答えだった。この先の予想は、当たってほしくなかった。『秋津豊里の命は―――秋津瑞穂の命と引き換えだ。』「…!!」その場にいた全員が息を飲み、母は思わず口を手で覆う。『こちらが提示する時間までに秋津瑞穂を殺さなければ、…秋津豊里を殺す。秋津瑞穂を殺せば、この子は解放しよう。』「…ふざけるな…」俯きながらぼそりと呟く大和の声は、低く怒りを滲ませていた。だが、相手は意にも介さずに、冷たい機械音声で『また連絡する。』とだけ言うと、無情にも電話をそこで切った。
――――やがて刑事が到着した。「…それで、犯人の要望は?」「それが…、」問いかけた刑事に対し、現場にいた警察官が説明しようとしたが、ちらりと瑞穂を見やると、二人で一度席を外した。『瑞穂を殺せば、豊里は助かる。』―――そんな要求があるものか。普通であれば、瑞穂に恨みのある人物の犯行であると思うだろう。だが、この場合は違っていた。「…私も、名村の方から少し話は聞いています。」『國崎 正』という名前が刻まれた手帳を見せながら、その刑事は秋津家の面々に向けて告げた。「名村はどうした。」大和が問うと、少し言いづらそうに國崎刑事は応える。「…現在、別件対応中でこちらには来れないとのことです。」「…」大和の眉間のしわが深くなる。こんな時に、と思ったが、言ったところでどうしようもない。「…瑞穂さん、こんなことを聞いてはなんですが…、恨まれる相手に心当たりは…。」その質問に大和が睨みつける。「名村から聞いているんだろう。」その威圧感に冷や汗をかきながら「…すまない、形式的な質問なんだ。」と答える國崎刑事。「…豊里の行方は、まだわからないのか。」「こちらも懸命に捜査している。…が、今のところ手がかり無しだ。目撃情報も無く、豊里さんが誘拐されたと思われる場所周辺には監視カメラなどもない。…スマホもここにあるとしたら、GPSも追えない。先ほどの電話…逆探知も…IP電話を使用しているのか、発信元が特定できない状況だ。…犯人の心当たりも無いとしたら――…行方は、」「…」その回答は、その場にいた全員に絶望を与えた。
―――…もし、このまま見つからなければ…?犯人の要求に従うしかないとしたら?“どちらか一人しか助けられない”としたら…。「(―――…)」それは究極の選択だった。どちらかの命を天秤にかけること等、本来はありえない。だが、『ゲームの参加者』である二人は―――人類の命運を握る立場にある二人は、どちらか一方を必ず選択せざるを得なかった。瑞穂を殺すなんて、出来るわけがない。だからと言って、豊里を見殺しにするわけにもいかない。瑞穂は代表者の一人で、代表者が死ぬことで人類の敗北のリスクが上がる。だが、瑞穂一人が死んだところで他の代表者が生き残る可能性だってある。それとも、人類のために豊里の命を犠牲にするというのか。そんなことを考えることさえ嫌になる。「(私は、どうするべきなんだ……?)」「(私が死ねば、豊里が助かる――…)」大和も瑞穂も焦る気持ちの中、結論が出せずにいた。そんな時だった。「!」突如として、電話が鳴った。瑞穂と大和の胸がどきりと打つ。その電話のコール音に追い立てられるように、警察が直ちに準備を開始する。國崎刑事から合図が出され、大和が受話器を取る。『決断は出来たかな?』「…お前の目的はなんだ。」大和は、別のアプローチが出来ないかと画策した。『…?なんのことだ。』「…依頼されて実行しているんじゃないのか。」『…俺達は、報酬が欲しいだけだ。』来た、とばかりに大和が提案する。「金なら、用意する。」そう言うと電話越しの声は笑い出した。『報酬ってのはな、何も金ばっかりじゃねぇんだよ。――…俺は、人類が滅亡したっていいんだ。』「…!」こいつ、そこまで聞いているのか…!?『こんな腐った人間ばっかりの世界なんて、滅んじまったほうがいいと思わないか?』警察たちや両親は顔を見合わせ、何の話だとでも言わんばかりだ。國崎刑事だけが、話を真剣に聞いていた。――…あぁ、そうか。そういうことか…。人選にも隙がないってことか…。「…そもそも、秋津瑞穂が死んだかどうかを、どうやって把握するつもりだ?」『こちらにはそれを把握できる手段がある。』まさか、と大和と瑞穂が顔を合わせる。守護者の首の数字のことを言っているのか…?「(滅亡の話といい、やはり…守護者が一枚噛んでいる…。)」二人の反応に國崎刑事が察する。―――この二人には、心当たりがある。深いところまでは名村から聞けてはいないが、どうやら犯人の言うことは的を得ているらしかった。『…そろそろか。』「!?」『今からあと10分で決断しろ。』「なっ…」その場にいた全員が凍り付く。あとたった10分だと?『10分後にまた連絡する。』勿論警察はそんな要求は飲めない、だが大和達は違う。あり得ない選択肢ではないのだ。瑞穂が命を狙われているのは事実で、瑞穂が死ねば豊里は助かるだろうことも事実で。それをわかっているから。
――――「(なんだ…この状況は)」刻々と迫る時間に焦りが加速し、頭が真っ白になる大和。こんなこと初めてのことで、動揺が隠せなかった。―――警察がいくら探しても見つからない。豊里の居場所に見当がつかない。自分の手の届く範囲に豊里がいない。…これまで、自力でどうにかできる状況だったから対処することができたが、今回は違う。"どうしようもできない"―――脳がそう認識した途端、ぐらりと視界が歪む。息が苦しい。嫌な汗が噴き出す。豊里が今、どんな状況でいるかもわからない。「(…なんで私は、こんなところで、ただ犯人からの電話を聞いていることしかできないんだ。)」秋津家で佇むことしかできない自分の不甲斐なさと、どうしようもない無力感に押し潰されそうになる。豊里が、手の届かない場所で、一人孤独と恐怖に怯えながら、殺されるかもしれないと思った瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。「(どうしたらいい。)」振り返ると、おそらく自分と同じような顔をした瑞穂がいた。瑞穂は、大和からの視線に気づくと、ゆっくりと口を開く。瑞穂が何を言わんとしているか察する大和は、その先の言葉を聞きたくないとでもいうように目を反らした。「大和…」―――…やめろ。「大和、私のこと…」…やめろ、そんなこと、
「私のこと、…殺して。」そんな言葉、聞きたくない。
――――『おいおい、冗談でもそんなこと言うもんじゃないぜ、瑞穂ちゃん。』「!?」聞き覚えのある声が部屋の中に響いた。その声の発生元は、國崎刑事の胸元にあるトランシーバーだ。「名村…!!特定できたのか!?」國崎が呼びかける。『あぁ。今から突入する。だから、殺すとかそういう物騒な話はやめてくれよ。』そう言って接続を切った。
――――廃墟に突入する名村達。やがて、犯人たちのいる一室に辿り着いた。逃げ惑う犯人一味を次々と拘束していく部隊。そして、リーダー格と思われる男に銃口を突き付ける名村。「あまり警察を舐めてももらっちゃ困るな。」奥の部屋に行くと、縄で縛られた豊里が寝ころんでいた。豊里も無事、無傷で保護された。
――――「どういうことだ…?」戸惑う大和が國崎に問いかける。「…すまない。犯人に悟られる可能性があるから、黙っていてくれと名村からは言われていたんだが…。こんなこともあろうかと、名村は豊里さんに、GPS発信器を密かに持たせていたんだ。スマホとは別にな。」「…!」國崎の話によると、実は名村兄妹が独断で豊里を監視していたのだという。豊里には、基本的に単独行動は避け、なるべく友達と行動するようにと忠告をし、常にスマホとは別にGPS発信器を服の内側に潜ませておくよう指示を出していた。大和は瑞穂のことで手一杯だろうと、大和の心理的・肉体的負担を減らすため、二人は敢えて大和に伝えていなかった。「そういうことだったのか…。」先ほど、少しでも名村を訝しんだ自分を恥じた大和。…名村は名村で、出来ることをやってくれていたのだ。瑞穂も安堵したのか、緊張が解けたのか、体から力が抜けたようにその場に座り込んだ。「……よかったぁ…。」そうして笑う瑞穂を大和は見る。両親も、互いに抱き合いながらその喜びを分かち合っていた。「……」
――――そしてそれから数十分後、豊里が名村に連れられ、秋津家へと帰ってきた。豊里は、名村兄妹が助けてくれるだろうという確信があったため、いくらか落ち着いていられることができた。だが、怖いものは怖かったのだろう。両親と瑞穂、大和の顔を見るや否や大泣きしながら駆け寄って来た。両親に抱かれながら、わんわんと子供のように泣きじゃくる豊里。それを見ながら、それぞれが『自分のせいで』、と思う瑞穂と大和はその輪に入れないでいた。暫く泣きじゃくった豊里はそんな二人の様子に気づくと、両親から離れ、二人の元へと歩いてきた。そしてそんな豊里に、大和はまず謝罪の言葉を述べた。「…ごめんな、怖い思いさせて…。」「…何言ってんの。大和が謝ることじゃないじゃん。」そして隣にいた瑞穂が、豊里を抱きしめる。「……っ…!!」抱き締めた豊里の体温に、『生きている』ことを実感し、心の底から安堵した。「~~~~…ッ…!!…ごめん、豊里…ッ…!!ごめんっ……!!ほんとうに、生きてて良かった……っ…!!!」そんな瑞穂の泣きながら放つ心からの言葉に、豊里はまたしてもぶわっと涙を溢れさせた。そうして姉妹二人、お互いの無事を確かめ合い、わんわんと泣きながら暫く抱き合ったのだった。そんな二人を見て、複雑な表情を浮かべる大和だった。
――――「…すまない、私のせいで…。」大和は名村兄のところへ向かい、謝罪していた。「おいおい、大和くんの"おかげで"豊里ちゃんは助かったんだぜ」「…?」「君が、俺と爆弾テロを手伝っていなければ。君が、俺を信用して真実を話していなければ。君が、諦めず俺に助けを求めていなければ。…俺は、君を信用して豊里ちゃんの身を案じることなんてなかったかもしれない。だから君のおかげだ。」「…!」そう言って立ち去る名村兄の背中を見て、大和は名村兄に対して抱いていた信頼感を、少し回復させるのだった。