ここは高級ホテル―――。スーツやドレスに身を包んだ、育ちの良さそうな男女達が入り乱れて談笑している。髪を後ろで緩くまとめ、赤いドレスに身を包んだドナは、ヒールを鳴らしながら人の間を通り抜けていく。その時、耳元のイヤホンに雑音が入った。『ドナ、そっちはどうだ?』「…どうもこうもねぇよ。」そう言って辺りを見回す。「こんだけ人がいたら、どれが誰だかもわかんねぇって!」『そりゃそうか…。』そして先日のことが思い出される。
――――「2週間後の日曜日に、国の重鎮達が集まるパーティが開催されるらしい。どうやらそこに、国や警察が手を焼いている、凄腕の女スパイが紛れ込む可能性があるようだ。」どうやらこの女スパイ、パーティに潜り込んで国の重鎮を誑かし、情報を盗み取ろうとしているのだそうだ。「その女を捕獲してほしい、というのが今回の依頼だ。」「"捕獲"ねぇ…。」「『情報を吐かせる必要があるから、絶対に殺すな。』と言われている。」「つったって、スパイやってるような奴が大人しく吐くとも思えねぇけど…。」「まぁそれはそうだな。」「おそらくいつもの手法だと、男性がターゲットのようだ。」色仕掛けで男を篭絡し、情報をかすめ取るらしい。「ほう…歳はいくつぐらいなんだろうな。」「てめぇは黙っとけ、エルバート。」「推定34歳だそうだ。」「ダレルも馬鹿真面目に答えんな。」「…!!―――…美人なのか。」「そうらしい。」そう言って遠目から盗撮されたらしい写真を取り出した。サングラスをしているため顔はよく見えないが、確かに美人のようだ。写真で見る限りの情報だと、黒髪で色白小顔。身長もいくらか高いようだ。口元の赤い口紅が色っぽさを増している。小さくガッツポーズをするエルバートを、皆が呆れながら見る。気を取り直し、今回の任務についてグレッグが話を進める。「つったって、重鎮がいすぎてどいつが狙われるかもわかったもんじゃねぇだろ。ターゲットの目星はついてんのか?」それにルイザが続く。「…そもそも人が多すぎて、この女を探し出そうにも手がかかりすぎるな。」更にドナが続く。「つーか重鎮どもを集めるなよ!そういう奴らにほいほい差し出すようなもんじゃねぇか!」「まぁ確かに…さも『狙ってください』と言わんばかりだな。」「そんなんだからこの国は付け入られやすいんだな。」皆の言葉に黙って耳を傾けていたダレルが口を開く。「…皆の意見は尤だ。ターゲットは不明、参加人数が数百人にのぼるパーティで、たった一人の凄腕スパイを探し出すのは…俺達だけでは相当骨が折れる。だが、依頼者もそれはわかっていたんだろうな。一応今回は、別途警備会社の人間も手配するそうだ。我々との情報共有や協力というのも考えてくれている。まぁ、実際の"捕獲"の部分については、我々の仕事だろうがな。」「…一応探すだけの人手とか目はあるってことか…。」「まぁ、ジョンだけだと負担がかかりすぎるしな。私達だけでも限界がある。」最後に、ダレルが追加の連絡事項を伝える。「スーツで紛れると敵に感づかれる恐れがある。」全員に嫌な予感が過った。「皆、正装して潜入してくれ。」
――――「くっそ~~~ギルとロイドのやつ…!!」そういった経緯でドナ、ルイザ、エルバート、グレッグ、ブレット、ダレルの6人が正装して侵入することになった。ギル、ロイドはそれを拒否。パーティの開催されている大広間の外で、通常のスーツを着用の上、監視をすることになった。ちなみにジョンは警備室で監視カメラ映像を確認しながら、警備会社の人間と情報共有をしている。「仕事だっつーのに拒否できんのか!?社会人としてどうなんだよッ!!」ドナは、こっちだって動きづらいドレスなんか着たくもねぇのに!と愚痴を吐き出しながらも、周囲への警戒は怠らない。「(にしても見つからねぇな…。)」警備会社との打ち合わせの結果、今回狙われそうな重鎮(男)には、警備会社の人間が周辺でつきっきりで監視をすることになったため、ドナ達は女スパイの捜索に注力することになった。『今のところ、どいつも異常無しだ。監視カメラ映像を見ても不審そうな人物は見当たらない。』ジョンから全体へ無線が入る。『こっちは見つからないです、どうぞー。』エルバートから始まり、皆口々に女スパイを見つけていない報告をする。『あの写真だけとはいえ、割と骨格がわかりやすいからな。いれば見つけられそうなもんだが…。』『行動が怪しい女なんてのも見てないな。』『こっちも一人一人見てるが、それらしい奴はいねぇぜ。』皆の報告につい、ため息をつくドナ。「ったくどこにいるんだよ…。」そうして、少し捜索場所を変えようとした時だった。「!」後方から歩いてきた男に体をぶつけられ、思わずよろめくと、その先にいた女性にぶつかってしまった。「あ、悪い。」そこにはドナと同じく赤いドレスに身を包んだ、長髪で、ドナよりいくらか背の高い糸目の女性が。「ううん。大丈夫。」女性はそれだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。その容姿に何か引っかかりを感じるドナ。「(…なんか、どっかで見たことある気がするな…。)」だが、あれほど目立つ見た目だ。覚えていないこともないだろうが…。どっかの女優に似てるとかか?と思い直し、任務に集中すべく、女性と別方向へ歩き出した。
―――ルイザもドナと同様に、周囲に目を光らせていた。青いドレスに身を包み、後ろでまとめ髪をしている。ドナもルイザも、マイラに服と髪を仕立ててもらった。そのおかげか、出かけ前にダレルから『綺麗だな。』と言われ、それがずっと耳に残っている。そして、何度も頭の中で反芻させては酔いしれるのだった。そんな時だった。壁際にいたスーツにサングラスの、金髪の女から突如話しかけられる。「よっ。」小声で気さくに話しかけられたが、ふと誰だったか?と考えるルイザ。「(…思い出した。)」確かこいつも、今回の作戦で雇われた女だ。作戦室にいた気がする。どうやら、警備会社の人間とはまた別の雇われらしい。名前は確か、タビサとかいったか。「…そっちはどうだ?」「ぜーんぜん見つからねぇ。それよりさ、あんたらって"何でも屋"なんだって?」「まぁな。」「じゃあさ、殺しとかもやるわけ?」「――…」何故そんなことを、と思ったが、隠しておく必要もなかった。「…まぁ、必要に応じてだな。」「そっかぁ。いやぁ、あたし実は本業がフリーランスの殺し屋なんだけどさぁ、」殺し屋にフリーランスもクソもあるのか、と思ったが、それよりも、まだ若いだろうに、とか、そんな情報をさらっと言うのか、とか、こんな軽い殺し屋がいるか、という思いの方が際立った。「まぁ人生色々経験しなきゃなーっていうので、今回みたいな案件も色々受けてるわけよ。」「はぁ。」それがどうした、と言いたげにルイザが雑に相槌を打つ。「っていうのもさ、あたし強い奴とやりたいわけね?」…あぁ、そういうことか。と、察するルイザ。「あのドナって奴さ、強い?」サングラスを少し下にずらしながら、期待に満ちた目でルイザに問いかけるタビサ。「あんたも結構やり手そうだけど…。あたしのスタイルと似てるのがあっちかなと思ってさ。たまにこういう収穫があるから、依頼受けるのやめられないんだよねー。」楽しそうなタビサに反して、淡々と返すルイザ。「どうだかな。お前の言う"強い"がどれだけのものか知らないが…。」そのルイザの言葉に、タビサはサングラスを元の位置に戻すと、壁に身をあずける。「ま。今回はやめとくよ。…もしかしたら、今後何か機会があるかもしれないし。」そんな機会あるものか。と思ったがそれに対して特に何も反応はしなかった。「さて、仕事戻らないとだよねー。」そう言ってタビサは伸びをしながらルイザの元を去っていった。「…なんなんだあの女は…。」特にドナのことを心配しているわけではないし、ただでやられるタマではないとも思っているが、厄介ごとを持ち込まれるのは面倒だった。ルイザははぁ…とため息をつく。「厄介な奴に好かれる傾向があるな、あいつは…。」そう、一人ごちて捜索を再開するのであった。
――――やがて、メインホールに特設された壇上へ主催が上がり、挨拶を始める。出席者達は、シャンパン片手に主催の方を向き、話に耳を傾ける。そんな中でも、ドナ達一行は引き続き捜索を続けていた。しかしやはり女スパイは見つからない。すると、突如無線がザザッと鳴り響いた。ジョンの声が全員に届く。『ルイス議員の行方がわからなくなったそうだ。』一同まさか、と驚愕する。思わずドナが小声で怒鳴る。「はぁ!?―――警備会社の奴らは!?」『ふと目を離した隙にいなくなったそうだ。』「おいおい…。」ジョンの言葉に、全員からため息が漏れ出るのが聞こえた。折角監視を付けていたにもかかわらず、この結果か。「どこも検討がつかないのか?」『悪い。ここ監視カメラが多すぎて、メインホール付近を中心に見てたもんだからよ。今、各フロアの監視カメラ映像を追ってるんだが――…お、』ジョンの声に耳を傾ける皆。どうやら、一緒に監視をしていた警備会社の人間が見つけたようだ。『あー…多分このシルエットは…。…70階の廊下を歩いてるな。』「な、70階だ~~!?」『…例の女スパイは一緒か?』ダレルがジョンに尋ねる。『女と一緒なのは間違いない。でも、あー…何とも言えねぇな…。画質が荒い上、後姿しか見えないんだよ。』『そうか…。ドナとエルバート、追えるか?』一番近いのはこの二人だった。「あぁ。」『おーけー。』『これが例の女スパイかがわからない以上、他のメンバーは引き続きメインホールで捜索を続けてくれ。』その声に皆、『了解』と答える。走り出すドナの背後で、先ほどの糸目の女が振り返り、ドナの後ろ姿を追っていた。「―――…」
――――「はぁ!?監視カメラ映像が見られない!?」先ほどカメラに映っていた現場近くに辿り着いたドナだったが、ジョンから衝撃の事実が告げられる。『あぁ。ハッキングされたのかと思ったが…どうやら物理的に破壊されてる可能性が高いな。』「物理的にって…。」70階までたどり着き、足を止める。ずらっと並んだ部屋の数々と、果ての見えない廊下。ここのホテルは高層で有名だが、加えて、巨大で部屋数が多い。この先のどこに入っているかがわからなければ…。「…まさか虱潰しに探せってか?」今皆パーティに出払っており、人目は期待できない。絶望していたところ、一人のホテルマンが通りがかった。「なぁそこのお兄さん、なんか議員ぽいふくよかなおっさんと、綺麗な黒いドレス着た女見なかったか?」そのドナの言葉に一瞬びくりとした後、素知らぬ顔をするホテルマンの青年。「しっ、知らないですね…。」その反応にぴくりとドナの眉が上がる。「お前知ってんだろ!!さっさと吐け!!」ホテルマンに詰め寄るドナ。「だっ、駄目ですよ!!偉い人のそういう話は機密情報扱いで、ホテルマンとして外部の人に漏らすのは…。」どうやら女性との秘密の逢瀬だと思っているらしい。「何を変にクソ真面目やってんだお前は!!」「う、うわっ!!」近づいてきたドナの胸元を見て顔を赤くする青年。「!」そこでピン!と何か閃くドナ。「(こいつ押せば口割りそうだな…?)」そう思うや否や、青年の手を取り自分の胸に当てさせた。「!?!!?!?」そして青年の耳元に近づき、耳打ちをする。「…なぁ、正直に話したら良いコトしてやるよ♡」「へあっ!!?い、良いコト…!?―――いやいや、駄目です、駄目です!!僕は、ホテルマンとしての誇りを―――」頑なな青年に焦れて、壁際に追いやり体を押し付ける。「!!!!!」固まる青年の首元に顔を埋める。「いいからこっち来いって。」そして、力の抜けた青年の腕を引っ張り、近くにあったトイレへと入り込んだ。――――数分後、すました顔のドナだけが、トイレから出てくる。「居場所がわかったぜ。」エルバートと通信をしながら颯爽と廊下を歩いていく。トイレの個室では、放心したような青年が、呆けた顔でへたりこみながら、一人取り残されていた。
――――「…ここか。」エルバートと二人、先ほどの青年が、「二人が入っていったのを見た」と言っていた個室の前に辿り着いた。カバンから銃を取り出し構えると、ドナとエルバートは扉の両側の壁に背を付ける。そしてお互い頷いて合図をすると、一気に扉を開け、部屋の中に向けて銃を構えた。「―――!!」流石高級ホテル。大きく綺麗な部屋の中には、特大サイズのベッドが。そこには、ベッドの上で下着姿になり、情けなく四肢を放り出して爆睡するルイス議員と、―――マスクを被り、ラバースーツを着用して、その上から何かを装着している女がいた。その異様な光景に思わず、一手出遅れるドナとエルバート。はっと我に返ると、すぐに女を取り押さえようと走り出す。―――が。「は…?」女は大きな窓から身を乗り出し―――そのまま窓の外へと落下した。「おいおいおい…!」二人で窓枠に駆け寄り、女が落ちた先を見下ろす。すると、ムササビのようなスーツで空を滑空する女が見えた。「怪盗なんとかかよッ!!つーか今どきラバースーツって…!」呆れるドナの背後で、興奮したようにエルバートが呟く。「ラバースーツやべぇな…。」「そこかよ!!―――おい、いたぞ、やっぱりスパイだった!!」すぐさま無線で皆に報告するドナ。「70階からウイングスーツ?だったかで飛び降りやがった!西の方へ滑空してる!この高さじゃ大した距離は飛べない筈だ!背中になんか背負ってたから、多分どっかでパラシュートかなんかで降りるぞ!」『わかった。ジョン、着地地点の計算は出来るか?』『やってみる。』『メインホールと、待機メンバーはすぐに追うぞ。ドナ、エルバートはそのままどちらか女の行方を監視しておいてくれ。』「つっても暗がりで追いきれねえぞ。」夜はとっぷりと暮れていた。『出来る限りでいい。』ダレルの言葉に、皆急いでメインホールを後にする。「おい、エルバート―――」背後にいた筈のエルバートに呼びかけたが、そこには既に誰もいなかった。「~~~あの野郎~~~~ッッ!!!」
――――女スパイはある程度の高さまで滑空すると、パラシュートを開き着地点を調整した。そして、適当なビルの屋上へと降り立つ。すぐさまパラシュートとウイングスーツを脱ぎ捨てて走り出すと、身軽な動きでビルとビルを飛び越え、障害物を踏み台にし、パルクールで駆け抜けていった。やがて飛び越えられるビルが無くなると、壁や建物のでっぱり、外付けの階段を利用しながら、どんどんと地上へ降り進めていく。路地裏で静かに地上へ着地すると、周囲を警戒しながら再び走り出した。―――だが、その時。「!」道の横から金属の棒のような何かが現れ、女の方向に素早く伸びてきていた。女はすぐさま横に飛び、それを避ける。金属の棒―――刺股を構えた男―――ブレットは、そのままの勢いで女に向けて突き付ける。が、女は壁に足をかけるとジャンプし、ブレットの頭上を飛び越えて後方へと回り込んだ。ブレットは勢い余って、壁に向かって刺す股を突き刺した。「なっ…!?」ブレットが振り返る前に、女は何かに感づいたように再び走り出した。軽快な動きでブレットが来た裏道へ抜ける。「――…勘も良いな…。」そう言って物陰から出てきたのは、銃を構えたギルだった。「―――全班、女は西通りへ向かった!女は身軽で、身体能力と五感がすさまじい!油断するな!!」無線で報告した後、二人で女の後を追った。
――――女が路地裏を走っていると、何かに気づいたように立ち止まり、すぐさまきょろきょろと辺りを見回し始めた。次の瞬間、小さい微かな、銃弾の発射音が鳴り響く。女は縦横無尽に駆け巡りながら銃弾を避けていく。そしてその銃撃の隙を見つけて走り出すと、近くのごみ箱を踏み台にし、配管を掴んで利用しながら、軽々と塀を乗り越えた。「マジかよ…!!」女の進行方向の先で銃を構えていたルイザは、思わず驚愕する。「なんだ、あの動き…。」今目の前で起きた出来事が現実だと受け入れられないまま、無線で仲間へと報告した。「あの女、やべぇぞ。」
――――「すげぇな、あの女。ルイザの銃弾避けやがったぞ。」ビルの屋上から観察していたグレッグが思わず呟く。「しかも麻酔銃だしね。――…やるしかないみたいだね。」と、ロイド。二人はその場から動き出した。
――――女が走っていると、「!」突然前方に向かって何かが飛んできたかと思えば、辺りが煙に包まれた。煙に潜みながら、ガスマスク兼サーモグラフィ身に付けたロイドが、銃を構えながら女へと近づいていく。女の姿を探しながら煙の中を進み、想定した地点まで到達する。が、女は一向に見つからない。―――すると、「…!?」ロイドは突然、背後から現れた何者かに羽交い絞めにされ、地面に押し倒された。相手は紛れもなくあの女だ。「(なんで…!?)」サーモグラフィには全く映っていなかった。煙の中でも捕捉可能な筈にも関わらず。「(まさか…)」そのためのスーツ…!?と気づいた時には、うつぶせのまま、腕を背後から縄か何かで縛り上げられていた。「…」煙が充満する中、女は、身動きの出来なくなったロイドの目の前にしゃがみこむと、挑発するようにマスク越しに投げキッスをした。「…」その行動に内心イライラしていたロイドだったが、後ろ手に縛られた状態では殴ってやることも出来ず、ただじっとしていることしかできなかった。おそらくこの女のマスクが、煙の成分をシャットアウトし、煙の中でも見通せる機能を有しているのだろう。女はロイドをそのままに、その場を走りさっていった。
――――女が走っていくと、その先で男が一人、裏道に佇みながら優雅に煙草を吸っていた。「…!!」女は思わずその姿に見惚れる。―――そのすぐ傍で待機をするブレットとギル。~~回想~~「女スパイは男に目がないらしいからな!名付けて『ネズミ捕り作戦』だ!!」グレッグを囮役にさせようと、ドナが主導し勝手に話を進めるメンバー達。当のグレッグは興味が無さそうにぼーっとしていた。エルバートは一人、「俺は!?」と言いながら皆の周りをうろうろとしていたが、誰にも相手にされていなかった。~~回想~~「マジでやる羽目になるとは思わなかったな。」いつもの調子で冷静に言うギル。「まぁこの際なんでも試してみるしか…―――おい、見てみろ!」そう言うブレットの視線の先では、何やらもじもじしながらグレッグの方へ歩いてくる女スパイの姿が。「あいつアホなのか…?」「自分の今の姿を忘れてるんだろうか…。」ラバースーツに覆面マスクだ。スタイルは良いが、どう見たって不審者でしかない。ともかく捕獲チャンスだ、とばかりに準備を進める二人。そして―――「今だ!!」グレッグの背後1.5M手前という距離まで女が近づいた瞬間、小声で互いに合図をすると、グレッグと女のいる方向へネットランチャーを撃ち放った。グレッグ諸共捕獲しようという作戦だ。―――だが。「!」女は感づいていたのか、グレッグから伸びていた手を払いのけつつ、低い姿勢になると、ネットが地上に到達するまでのわずかな時間で、するりと抜けだした。壁を駆け抜け、窓のヘリを掴んで、配管をよじ登り、ビルとビルを飛び越えながら抜けていった。残されたのはネットにとらわれたグレッグのみ。「…すまん。」申し訳なさそうなブレットに、「だから俺は嫌だったんだ…。」と心底うんざりしたようなグレッグがいた。「…やはりこれしかねぇようだな。」そんな二人の背後で、動物用の捕獲籠を手にしたギルが。「…何度も言うが、それは流石に無理だと思うぞ。」と珍しく突っ込みを入れるブレットだった。
――――「おいおいおい、マジでヤバい奴かよ…ッ!」裾が邪魔だとドレスを引きちぎり、ミニワンピースになったドナが、走りながら無線の報告を聞いていた。『さっきから何度も仕掛けたが、一向に捕まらない。』ルイザ含め、複数人で追い込んでも、華麗なパルクールの動きで逃げられてしまう。「つーかロイドは?」『芋虫状態だ。』未だ後ろ手に縛られ、動けずにいるロイド。「ネズミ捕り作戦も駄目だったか…アレはいけると思ったんだけどな…。」『あれこそ一番ねぇだろふざけんな。』珍しく若干キレ気味のグレッグが割り込む。「つーかその体力もなんなんだよ…バケモンかよ。」『頼む、ドナ。あとはお前しかいない。』希望を託すかのように言うブレットに、しょうがねぇな、と返そうとした時だった。『いや、俺に任せな。』「は?」一番信用ならない男の声が無線に響いた。
――――女が更に足を進めると、前方に人影が現れた。そこには格好をつけたエルバートが。「お姉さん…。俺、さっきのお姉さんの肝の据わったその度胸に惚れちまったよ。良ければ俺と一緒に逃げないかい?」本気だか冗談だかわからない言葉で女に詰め寄る、年上好きのエルバートだったが―――…。女は走る速度を落とさずに、勢いよくジャンプをすると、エルバートの頭を上から手で押しながら、跳び箱の要領でその体を飛び越えた。「…そういう男を尻に敷きそうなところもたまんねぇな。」地面に突っ伏しながら呟く、エルバートだけが残された。『何やってんだエルバート!!』たまらずドナが叫ぶ。―――と、女が逃げた先にちょうどドナが居合わせる。「見つけたぜェ!!」そしてそのままの勢いで女に突進をする。「!」ドナの素早い動きに一度は驚愕する女だったが、すぐさまその猛攻に対応する。ドナからのびる手を避け、バク転しながら距離を取る。「!」すぐにドナも駆け寄るが、俊敏な動きと、まるで体操選手のような柔軟性により、ドナの手の合間をするりと抜けていく。「・・・!!」得意の蹴りを繰り出すも避けられる。構わず2手、3手と繰り出していくが、女はするり、するりと避けてしまう。あまりの捕らえられなさにヤケになり始めていたドナだった。すると、「うわっ…!!」慣れないヒールのせいか、勢い余って地面に突っ伏すドナ。女は振り返りざまにひらひらと手を振ると、そこから走り去っていった。「~~~ッのアマぁ!!!」だが女が僅かでも油断したその一瞬だった。「!!」ふいに曲がり角からダレルが現れ、女の腕を掴んだ。あまりに一瞬のことで、女スパイもドナも呆けていた。「…捕まえたぞ。」あれだけ時間をかけた派手な逃走劇は、あまりにもあっさりと幕を閉じた。
――――「ちぇー。捕まっちゃったわねー。」後ろ手に縛られて正座し、マスクをはぎ取られた女は確かに美女だった。「なんだったんだ私達の努力は…。」「やっぱり不意打ち最強だな。」「完全に油断したぁ~~~!もう、アホそうな子ばっかりだから余裕だと思ってたらこれよ~。」「んだとコラァ!!」と、キレるドナよりもキレている人物が一人。「やり返さなきゃ気が済まない。」無表情だが怒りを滲ませるロイドを、後ろから羽交い絞めにして止めるブレット。「落ち着け、ロイド!」「あらあら、可愛いわんこちゃん♡あれから自力で抜け出せたのかな~~?」「…」ロイドの力が強くなる。「お前も煽るな!!」ブレットに怒られてもカラカラと笑う女。それどころか、「ねぇ、それよりお兄さんいい男ね♡良ければ連絡先交換しない?」と軟派を仕掛ける始末。「…」話しかけられたグレッグは無視を決め込む。「ちぇ~~~連れないわね~!そしたらこっちのお兄さんはどう?」そう言って今度はダレルに話かける。「すげぇな…。」思わずギルさえ感嘆の声をもらす。「メンタルやべーな。おまけに肉食かよ…。」ドナも呆れたようにそれを見ていた。「だっ…駄目だ駄目だっ!!」顔を真っ赤にしながらダレルの前で通せんぼをするルイザ。「あら~~?ふ~~ん?あなたもしかして彼のこと…」「わーーっ!!わっ!!おいっ!!やめろばかっ!!」騒ぐルイザの裏で?を浮かべているダレル。そんな中、すすすとちゃっかり女の傍に座り込むと、キメ顔を披露するエルバート。「お姉さん、そんな奴らより俺はどうだい?」「ごめんなさいね、私軟派な男は好みじゃないの。」あっさり玉砕し、ガーンと意気消沈する。「…君は、自分の立場をわかっているのか?」ダレルの言葉に皆が静まり返る。「わかってるわよー。国に引き渡されるんでしょ?」そんなこと言われなくてもわかってる、とばかりに拗ねる女。「…ま、いずれこうなるとは思ってたけど。…あ~あ、これでおしまいかぁ~。」引き渡された先でどんな扱いを受けるか、わかったものではない。「まぁ、なんとかなるでしょ!私凄腕スパイだし!―――…あなた、優しいのね。」そう言って女は微笑んだ。ダレルが彼女の身を案じている空気を感じ取ったのだろう。話してみると、こんなにもただの普通の女性だ。ドナとルイザを預かる身のダレルとしては、思うところがあるのだろう。「…ま、こんな良い男と、こんな面白い奴らに捕まるなら悪くはないかもね~。」そう言ってにかりと笑って見せる女。「メンタル強…。」それを見たドナはぼそりと呟くのだった。
「…逃げられただ…?」ダレル達が依頼者へ女スパイを引き渡してから、数日後だった。バーに遊びに来たマイラが、衝撃の事実を話す。「そ。なんなら引き渡してすぐだって!流石に威信にかかわると思ったのか、国も公にはせずに、内々で処理してるみたいよ?国を出し抜くなんてやるわね~凄腕スパイ!…って、今更か!」あははと笑うマイラの傍らで、怒りに震える者と、呆れて天井を見上げる者と、マイペースにコーヒーをすする者とに分かれた。「これこそ『私らの努力はなんだったんだ』、だ!!」「折角捕まえたのにどんだけ無能なんだよサツは…。」「…まぁ、報酬は支払われてるからそれだけは良しとしよう…。」だが、その後もしばらく場は荒れたという。