【3話】 幼馴染と貧乏神(土曜日)


「そういやさぁ、午前中ちょっと散歩出ただろ、俺。」休日の昼過ぎ―――真志は境内の掃き掃除をしながら、ベンチに座って一服する毘沙門天に問いかけた。「あぁ。」「知り合いの妖怪達に、『七福神の姿を見てないか。それか、どこかにいるとかって噂聞いてないか』って聞いてみたんだよ。」「…お前知り合いの妖怪がいるのか。」「は?…そりゃ、いるだろうよ。昔から見えるんだから…。猫又の知り合いがいてよ。」「…そうか。続けろ。」どこか引っかかるな、と思いつつ促されるまま話を続ける。「でも駄目だった。」「…だろうな。」「そいつから他の奴にも聞いてもらったけど、皆知らねぇってさ。」「…まぁ、そうか。」宝船があるのは天上海。通常、地上からは見えない場所に位置している。余程のことがない限り、そこまで行くことも無いだろう。そもそも、最下層の階層と言えど、天上の一部には変わりない。それなりに力を持つ妖怪や、神クラスの者でないと到達することさえ難しい。そしてその広さ。地上の、強い力を持つ妖怪達に手伝ってもらおうにも、まさに海の如く広すぎて捜索するのも一苦労だ。やはり七福神側から毘沙門天を探してもらうしか方法は無い。「結局待ちか…。」はー…と煙草の煙を吐き出す毘沙門天。そんな毘沙門天を尻目に、ざっざっと箒を掃くと、思い出したように再び毘沙門天に話しかける。「ところで話変わるけどよ。昨日気になったことがあるんだが…。」「なんだ?」「『ここが安全だ』とか言ってたけど、それってどういうことだ?」そう言って振り返ると、未だに煙草をスパスパ吸う毘沙門天の姿が目に入った。「…つーかさっきから煙草吸ってんじゃねぇよ!ここ境内だぞ!」「"私の"神社だろ。」「うるせぇ!神聖な空気を穢すな!!」「ちゃんと後始末はしてる。」そう言って携帯灰皿を取り出して煙草の火を消した。その中には既に2本の吸殻が入っている。「それどうしたんだよ。」「お前の父親がくれた。この煙草もだ。」「あの馬鹿親父…!!」「…で、なんだったか。神社が安全な理由か。」そう言って腕組をする毘沙門天。「神社には結界が張ってあるんだが、それには良くないものを寄せ付けない効果と、強い力を外に出さない効果がある。私の力は、…自分でいうのもなんだが、結構強い。だから、制御が出来ていない内は境内に留まっているのが一番良いんだ。周囲の民達の為にも、自分の為にもな。」「えっ?じゃあ俺たちは?」「見たところ、お前等親子はまぁ、大丈夫だろ。」「適当じゃねぇか!!本当かよ!?」「少なくとも福の神の力だ。そう悪い影響は与えないだろう。」「…あぁ、まぁ…なるほど。」「まぁそれも、今日までの話だろうな。おかげで体は大分回復したし、力もある程度制御できるようになってきた。」そう言って肩を回す毘沙門天。「おかげで…ってまだ3日目じゃねぇか!早いな…。」「言っただろ。昔は頻繁に地上に降りていたんだ。地上への適応力に関してはそれなりに高い筈だ。なんなら、他の天人どもよりも余程上だろうな。…特に、ここは私にとって本拠地だ。力もより多く、早く得ることが出来る。」「なるほどなぁ…。」「それか単純に、私が特に丈夫で、環境適応力が高いかだが。」「…それもあるんじゃねぇかな…。」自慢気に笑う毘沙門天に、見るからにポテンシャル高そうだしな…と、真志も否定はしなかった。その顔はなんかムカついたが。「ともかく、まだそこまで衰えていないようで安心した。」そう言って微笑む毘沙門天は、心から安心しているように見えた。「ん?待てよ。もう一つさ、『良くないものを寄せ付けない』…って言ったか?」「あぁ。地上に潜む妖怪やら悪神やら…ってことだな。」「…それって、襲ってくる可能性がある、…ってことか?」「そりゃあな。地上に住む奴等の中には、私達のような存在を疎ましく思っている奴らが大勢いる。まして、今の私達には昔ほどの力はないし、狙うには絶好の機会だろう。」「それって、調子が戻ったとしても全盛期には届かない、ってことか?」真志の問いに、表情を引き締める毘沙門天。「…私達の存在は、お前達人間の信仰の上で成り立っている。お前達が私達を認識し、敬い、祈り、祀る―――そういった行為そのものが、私達の力となる。…現代では、そうする者が減っているだろう。皆、神や仏と言いながら、その存在を心から信じてはいないし、祀る者はどれほどいる?当然、私達の力は弱まっていく一方だ。今や…そうだな、おそらく全盛期の半分。もしかしたら、お前達が私達の存在を誰一人として信じなくなった時、私達は消滅するかもしれないな。」「…!」「どうした?」「いや…そうだったのか…、」真志の反応に、言うべきじゃなかったな、とバツの悪そうな顔をする毘沙門天。「…まぁ、なんだ。気に病む必要はない。元々が、民達によって生まれた存在だ。消えゆくのも、そういう運命なんだろう。寧ろ心配すべきは人間達の方だ。私達がいなくなってしまえば、無法地帯のような状態になるんだからな。」何でもないことのように言う毘沙門天。どこか気まずい雰囲気の中、神社の石段の奥から一人の影が現れる。真志も毘沙門天も、その人物に視線が移った。「―――…小百合…!?」咄嗟に出た真志の言葉とその反応に、思わず毘沙門天が見る。「真志くん…!」はぁはぁと息を切らしながら階段を登り切った小百合は、ふらつくと膝に両手をついて呼吸を整える。「相変わらず…この階段、キツイね…!」小百合が落ち着くまでの間に、真志の傍へ毘沙門天が近づいて行く。「…誰だ?」毘沙門天の問いに小声で答える真志。「…俺の幼馴染だよ。」「お前…あんな可愛い子がすぐ近くにいるのに、なんでアニメキャラに…。」「あいつはそういうんじゃねえんだよ!!」そう小声で怒鳴ると、真志は小百合の近くへと歩いて行く。「どうしたんだよ、こんな休みの日に…。」「はあっ…。…あのね、心配で来ちゃった。」「は?」小百合は体を起こすと、照れたように髪を整えながら言う。「…最近、真志くん、様子が変だったから…。大丈夫かなって思って。」「!」「迷惑かなと思ったんだけど…。」「…迷惑だなんて…。」寧ろ余計な心配をさせたようで申し訳ない気持ちさえあった。「…昔も、そんなこと言った数日後に、怪我して帰って来たことがあったから…。」「!」その発言に毘沙門天が反応する。「…悪いな、心配させて。もう大丈夫だって。」「…本当?」離れた場所から自分達を見つめる毘沙門天の姿を見て、小百合が気に留める。「あの…ごめんなさい、あの人は…?」「(やべっ)」まずい。着物の年上女なんてどう見ても怪しい奴だ。「あぁ…その、親戚のねーちゃんで…」「あれ?でも真志くんの親戚って、お兄さんじゃなかったっけ。」「(覚えてたのかー!!!)え、や、あの…それは母方の方で、その…親父の方の!!」「そうなんだ。」しどろもどろになりながら、「親戚の姉」という設定を押し切ろうとする真志。だが、いつの間にか接近していた毘沙門天が、そんな真志を押しのけて、小百合に声をかけた。「今のはこいつの嘘だ。」「は!?ちょっ」「私は毘沙門天という。」「(またこいつはーーーーーッ!!!)」例のごとくあっさりと自己紹介をする毘沙門天。「お前ッ…!本当にさぁッ!!」小声で毘沙門天に詰め寄る真志。だが、対して毘沙門天は冷静だった。どころか、どこか大人びた顔をしている。「隠し事はよくねぇぞ。」「誰が…!!」「特にこの子相手にはしない方がいい。」「!」「後でお互いしんどくなるだけだ。」「…!!」そう言われて小百合を見る真志。「えっ?…あれっ?」きょとんとする小百合は、毘沙門天と真志の顔を交互に見ていた。どうやら状況が呑み込めない様子だ。「毘沙門天って…確か、この神社の…?――…同性同名の、方…?」「んなわけねーだろッ!!」思わずツッコミを入れてしまう真志。「本人だ。」キッパリと言い切る毘沙門天にますます呆気に取られる小百合。しかも、隣にいる幼馴染はそれを否定しようとしない。「えっ…えええーーーーっ!!?」小百合の驚きの声に、近くの木々からカラスたちがカァカァと飛び出していった。
――――三人は、自宅の縁側でお茶を飲みながらほっと一息つく。「そっかぁ…神様って初めて見たけど、本当にいるんですね…!」「…意外と受け入れるのが早かったな。」流石の毘沙門天も遠い目をしながら、最早呆れる。えへへと笑いながら、手元に持っている湯飲みに視線を落とす小百合。「…真志くんが否定しなかったから…。真志くんが毘沙門天さんのこと好きだったの、昔から知ってるし…。もし嘘だったら怒ってるはずだなって。」「…」つい2日前は、小百合の言う通り烈火の如く激怒していた。「(流石幼馴染だな…)」と思いながら、茶をずずずと啜る毘沙門天。「それに真志くん、昔から私達に見えないものを見たりしてたし…。」「(…なるほどな)」彼女もそれはわかっているのか。「…でも、良かったね。真志くん。憧れの人と会えて。」そう言って笑う小百合は本当に嬉しそうだった。「…あぁ…。」昔から真志のことを知っている小百合だからこその心からの笑顔だった。真志も思わず顔が綻ぶ。それを見て、毘沙門天も微笑んだ。「…あの…改めて私、小百合です。真志くんとは幼馴染で、同い年です。よろしくお願いします。」そう言って小百合が毘沙門天に手を差し出す。毘沙門天もそれを快く握り返した。「あぁ。よろしくな。」手を放してふふ、と微笑み合う二人。「この機会なので、もし良かったら気になっていたことを聞いてもいいですか?」「なんだ?」「あの、…ごめんなさい、私仏教に詳しくなくて…。失礼だったら申し訳ないんですけど…。…毘沙門天さん含めて神様って、普段何をしてるんですか?昔から真志くんからは、毘沙門天さんは『七福神の一人』だとか、『戦いが強い神様』だとか、『ご利益がある神様』だってことは聞いてたから、それはわかるんですけど…。具体的には、いつもどういうことをしてるのかなって。」小百合の質問に、それは俺も気になる、と興味津々になる真志。七福神として宝船で各地を回っている、とは聞いたが、それ以外にもどういった仕事をしているのだろうか。毘沙門天は若人からの質問に少し考えた後、小百合の方へ向けていた体を、正面に向けた。「それを説明するには、まずこの世の仕組みから知ることが必要だな。」そう言って手元に宝棒を出現させると、その先を地面に当て、ざりざりと何かを書き出す。「…それってそういう扱いしていいもんなの?」「あ?何がだ。別に構わねえだろ。」「そう…。」毘沙門天は小百合に視線を投げる。「『六道』――…ってのは知ってるか。」「ろくどう…?」「それなら、『輪廻転生』はどうだ。」「あっ!それは知ってます!生まれ変わりのことですよね。」「そうだ。」毘沙門天はその六つの道を文字で書きあげる。「仏教においては、まず前提として、この六つの世界が存在する。―――天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、ってな。」一つ一つ宝棒で指しながら説明する。「この世に生きる、人を含めたすべての生物は、生前の行いに応じてこの六道を輪廻転生―――つまり、生まれ変わりを繰り返しながら巡るんだ。」ふむふむ、と小百合は真剣に耳を傾ける。「それぞれがどういう世界かってのを一つ一つ簡単に説明するとだな…―――『地獄道』――…は流石に知ってるよな。地獄のことで、殺しだの強盗だの、悪業を積んだ者が落ちる世界だ。罰を受けて、罪を償う世界だな。『餓鬼道』は、欲深いやつが行く世界で、そこに落ちた奴は"餓鬼"っていう妖怪になって、ひたすら飢えと渇きに苦しみ続けることになる。『畜生道』は―――…まぁ簡単に言うと、目先の欲に溺れて、本能と欲に振り回される連中が行く世界だ。腹が減れば奪い合い、争い、苦しむだけ。犬とか猫とか、動物がそれに該当する。『修羅道』は、戦いとか争いが好きな奴が行く世界だ。あとは感情に任せて身を滅ぼすような奴が行く。この世界にいる奴らは延々と戦ってるらしいな。そして『人間道』がお前達人間が住む世界で、善業も悪業も、どちらも積んだ者が行くところだ。最後に『天道』が、私達天人が済む世界で、比較的善業を多く積んだ者が行く世界、…ってところだ。」「へー…。」「ここまではいいか?」「はい。」そしてまた何かを地面に書き出す毘沙門天。「仏教の教えだと、この六道から抜け出す―――つまり、『解脱』することを最終目標としている。解脱ってのは、煩悩や、この六道輪廻っていう束縛から解放されて、迷いだとか苦しみから抜け出すことを言う。―――要は、『悟る』ってことだな。『解脱』するには、善行を積んだり、仏道修行をする必要があるんだが―――無事『解脱』を果たしたのが、"如来"、『解脱』を目指して修行中なのが"菩薩"、仏法を守護し、人を災いや迷いから救うのが"明王"だ。―――…菩薩も明王も、既に解脱出来る状態ではあるものの、他者の救済のために敢えて輪廻の世界に留まっているらしいがな。」「は…はい…。」「なるほど…。」二人の返事から、頭がパンクしそうになっていると察する毘沙門天。「…あー…もうすぐ終わるぞ。ここからが私達の話だが…。」そう言うと、体をふらふらと揺らしていた二人はしゃきりと姿勢を正した。「私達七福神も所属する『天部』は、その明王の下に位置する存在だ。そして、『護法善神』とも呼ばれる私達の役目は、仏法や仏教を守ること。―――つまり、天上界そのものや、如来や菩薩、明王等の上司、信仰してくれる人間達なんかを守る仕事をしている。」「へぇー…!」「具体的に言うと、天上界の管理や警備をしたり、天上や地上における悪神や"魔"を排除したり、上司どもの警護とか…、まぁ、書類仕事なんかも色々とやらされている。」「へぇ~~~。」「長くなって悪かったが、こういうことだ。これでわかったか?」「なんとなく!」「まぁ、それでいい。」そう言うと宝棒を消した。「今の話だと、毘沙門天さん達天人も、六道の一部なんですか…?」「そうだ。私達も死ねば、もしかしたら地獄に行くかもしれないし、人間に生まれ変わるかもしれない。なんなら畜生になるかもしれない。…実際、過去には生きながらにして修羅の道に落ちた者もいる。」「えっ?生きてても落ちることってあんの?」「あぁ。」「ひぇ…。つーことは地獄に行く可能性も…?」「余程のことが無い限りはないだろうが…もし落ちたら…。―――考えるだけでもぞっとするな。」あの毘沙門天が青ざめている。この顔は"何か知っている"顔だ。「深くは聞かないでおくよ。」「あぁ、そうしてくれ。」一通り説明を聞いて、はーっと一息つく真志と小百合。「なんかすごい世界だね…。」「そういうことだったのか…。『如来』とか『菩薩』の違いとか…。『六道』ってそういう意味だったんだな。」「神様達の仕事の内容も、初めて知ったよ。」「ちなみに私個人がしてきた具体的な仕事としては、四天王として天上世界の北の方角を守護したり…十八部衆として千手観音の眷属をしたり…十二天として定例会議に参加して近況報告したりだの…、色々だな。」「えっ!大変じゃないですか…!」「だが、七福神に選出されてからは、それらの仕事もいくつか免除された。――…四天王については強制的に解任されたがな…。」どこか恨みがましそうな目で遠くを見つめる毘沙門天。「…何かあったみたいだね…。」「…わからねぇけど、触れないでやろう。―――ん?待てよ。」何かに気づいたように真志は目を瞬かせる。「もう四天王じゃねぇの?」「そうだ。地上では、未だに私が多聞天だって話らしいだがな。」「じゃあ今、その北の方面ってのは誰が守ってるんだよ?」「私の後に引き継いだ多聞天だ。」「襲名制なのか!?」「まぁそういう場合もあるってことだ。」「へ~…。」知らないことばっかりだな、と思わず脱力する。縁側に倒れこんで空を見上げる。頭が追い付かねぇ…。そんな真志の隣で、小百合と毘沙門天が別の話題で盛り上がっているのが聞こえた。「天部って他にどういう人がいるんですか?」「天部は良くも悪くも個性的で、変わった奴ばっかりだ。…多分、他の七福神の奴らにも会えば、それがわかる。」「へ~!」「よく私達が仲良くさせてもらってるのは――…ダキニ天とか、技芸天とか、摩利支天あたりだな。」「ふむふむ。」「…何してるんだ。」「あとで調べてみようかなって思って!」「…真面目な奴だな…。」「えへへ、毘沙門天さんみたいに、どんな人たちなのかな~って気になるので。―――おかげで、色々と知られてよかったです!毘沙門天さんのこととか、天上世界のこととか!」真志とその両親もそうだが、純粋に興味を持ってもらえること自体が、毘沙門天にとっては嬉しいことだった。「あぁ。意外と奥深いんだ、この世界は。…お前達からすると、ややこしくて難解な部分もあるがな。気になったら色々と調べてみるといい。さっき話したことも、本当にざっくりとしたことしか話していないからな。」「はいっ!」そこで、何かを思いつくような顔をする毘沙門天。「…ついでだ。お前達に話したいことがある。」その言葉に思わず起き上がる真志。毘沙門天は二人に向き直った。「仏教ではな、すべての事柄は偶然ではなく必然なんだ。そして、すべての事柄には必ず原因と結果がある。因縁、因果って言葉があるだろう。因、つまり原因が、果、結果に至るために必要な条件となるのが、『縁』だ。―――…私は、その"縁"というのを大事にしている。両者が"縁"で結ばれることで、幸福な結果をもたらすこともあるからな。お前達からすると、結婚などがそうだろう。互いに影響し合うことで、双方の進む道をより良い方向へと変えることもできるかもしれないしな。真志と小百合が出会ったのも、きっと『縁』なんだろう。」二人も真剣に耳を傾ける。「…私は、誰かと出会った時、常にその『縁』を感じて、それを忘れないようにしている。―――…私とお前達が出会ったのも、きっと『何かの縁』なんだろう。」そう言って微笑んだ毘沙門天の顔は、今まで見たそのどれよりも優しかった。
――――そんな風に会話をしていると、いつの間にか日が暮れかけていた。境内に夕陽が差し込む。毘沙門天は「時間も遅いから、小百合を家まで送ってやれ」と真志に命じた。夕陽に照らされた石段を降りながら、小百合は毘沙門天に笑顔で手を振る。鳥居の手前で、優しく微笑みながら振り返す毘沙門天。やがて真志と小百合の背中が見えなくなるまで見送ったが、その後も何故か毘沙門天は、そこから動こうとはしなかった。石段の下を見つめたまま、まるで何かを待っているかのように佇む。どんどんと夕陽が沈む。辺りは暗くなってきて、星がちらつき始めた。そして、夕陽が完全に地平線の彼方に消え、辺りが暗闇に包まれた瞬間だった。毘沙門天が見下ろす石段の先に、黒く汚れた着物に身を包んだ、長い黒髪の女が現れた。その女が纏う雰囲気は、眼前に広がる星空のように穏やかであるとも、昼間の青空のように爽やかであるとも言えなかった。「あらぁ…ふふ…感覚は衰えてはいないようですねぇ…。こんにちは、毘沙門天様…。滑稽ですこと…。あなたともあろう方が、こんなところでひっそりご隠居なされているとは…。ふふふ…っ…」女の挑発を気に留めることなく、毘沙門天は毅然とした態度で臨む。「…昨日、様子を見に来ていたのもお前か?」「……あら…、やはりお気づきでしたか…。」「…まぁ、あれだけ派手に落ちれば、お前らにも居場所が感づかれるか…。」3日前の落下事故について思い出す。「…いや、そもそもあの落下もお前達の仕業か?」「…あら、なんのことでしょうか…。」「…とぼけるな。」「…ふふ、嫌ですねぇ…なんでもかんでもそうやって私達のせいに…これだから天上のお人は…。」そう言って声を低くし、毘沙門天を睨みつける女。直後、取り繕うようにして、パッといやらしい笑顔に戻る。「…ただの偶然ですよぉ…。わたくしも、たまたまこの町を訪れていただけです…。そんなこともありましょう…。」「――…まぁいいだろう。それで?貧乏神が私に何の用だ。」「いやですねぇ…わかっておられるくせに…。」袖で顔を隠しながらも、その目つきはキツイ。毘沙門天は笑って返した。「私が弱体化しているからといって、お前一人で勝てるとでも?そもそも、ここまで入って来られるのか?」「ふふふ…私は…一人、だなんて言ってませんよぉ…?」そう言うと、同じような恰好をした二人の女が左右から姿を現した。「それと…ここの結界ですが…もう強くはないんですよねぇ…。これだけの人数がいれば…いとも簡単に突破できてしまうというもの…。おわかりでしょう…?」「…」沈黙は肯定だった。「卑怯だ、…とでも思いでしょうが…。そうでもしなければ…あなたほどのお方にはいつまで経っても敵いませんから…。」貧乏神が腕を一振りすると、鋭い風が毘沙門天の傍らを通り過ぎ、彼女の背後にあった木をなぎ倒した。もう一振りすると、鳥居に僅かに亀裂が入った。「はは…あははっ、すごいですね…!!かつての脅威が嘘のようです…!!」毘沙門天の眉間に皺が寄った。「ふふ、…っふふ、その顔…たまらないですね…。ぞくぞくします…。まさかこんな日が来るだなんて…。」そう言って貧乏神は、足を上段に向けて一歩踏み出す。「…私達の本望は、人を"不幸"に陥れることですから…。彼らに"福"を授けるあなた方は…私達にとって邪魔者でしかない…。」ゆっくりとした動作で、一段一段、階段を登っていく。「…まだ…あなた様はご存知ないのかもしれませんが…、…今の人間達に、"福"を授ける価値などありませんよ……。」その言葉に、毘沙門天の眉がピクリと動く。貧乏神は、ゆらゆらと横に揺れながら、まっすぐ毘沙門天を見て不気味な笑顔を浮かべる。「……よぉーー…く、御覧なさい。…醜いですよ、人間は…。傲慢で、下劣で、高慢で―――……あぁ、上げればきりがない…。…皆、誰もが自分のことしか考えていない。その心は…穢らわしく、厭やらしくて、気味が悪くて、…――――…全く、反吐が出る。」鳥居を跨いで、すぐ目の前に二人の女は相まみえた。「…終わりですね…。」毘沙門天のすぐ目の前に、貧乏神の顔が迫っていた。鳥居の境越しでにらみ合う二人。「…あなたは…民に忘れ去られて、その生涯を終えるのです…。…なんてお可哀相に…。嘗てあれほど民に慕われ…力を付けていたあなたが……。…守るべき民に…そして、愛した民に見捨てられ…、力を失い…私達に蹂躙されるだなんて……。…あの時ではとても考えられなかったでしょうね…。」貧乏神が手を伸ばそうとした、その時だった。「…お前ら、何してんだよ…!!」貧乏神達は、突如現れたその人物の一言で、動きを止めた。そして、その者がいるであろう背後へと振り返る。そこには、息を切らしながら階段を登る真志の姿があった。
――――「(真志くん、急に走って行っちゃったけど何かあったのかな…。)」小百合の家のすぐ近くまで送り届けた真志は、小百合に一言「ごめん!」と断って駆け出してしまった。ふと、視線を感じて振り返ると、何かに気づく小百合。「(あれは――――…)」
――――貧乏神達が真志の存在に気を取られている、その一瞬の隙をついて、毘沙門天が動き出した。「…!!」毘沙門天が繰り出した刀は、咄嗟に避けようとした貧乏神の肩を掠める。貧乏神は瞬時に距離を取った。「――…この距離で、とは流石だな。」「…ッ…!!」血の出た肩口を手で押さえながら、恨めしそうに毘沙門天を見つめる貧乏神。毘沙門天は視線を貧乏神から真志に移すと、目だけで指示を出す。「―――!!」真志は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情に切り替えた。次の瞬間、二匹の虎が毘沙門天の背後から、一匹の虎が、真志の背後から飛び出してきた。「…ッ!?」計三匹の虎が貧乏神達に襲い掛かる。貧乏神達は、咄嗟に出現させた刀で虎からの攻撃を受け止めた。距離を取ろうと、貧乏神が後ろに飛ぼうとした時だった。その背後には、刀を構えた毘沙門天が迫ってきていた。「見くびるなよ。」「―――…!!」階段の中腹で、敵に囲まれ、しかもその場所は毘沙門天の神社の目の前。しかも弱体化していたと思われる毘沙門天からの反撃。どう考えてもこの状況は、貧乏神達にとって不利であった。毘沙門天が斬りつけようとしたその時だった。「!」三人の貧乏神は、突如として跡形もなく消え失せた。「チッ…逃げられたか。」「毘沙門天!」真志が駆け寄ってくる。それにつられるように、3匹の虎も集まってくる。毘沙門天は刀を鞘に納めると、それを消失させながら真志に向き直った。「悪いな、真志。助かった。」「…嘘つけよ。お前、実はまだ全然余裕だったろ。」「…バレたか。」そう言いながら踵を返すと、階段を登っていく。真志もそれについていく。「折角回復したところだってのに、無駄な体力を使いたくなかった。」「無駄な体力って…。」敵はなかなかにヤバそうな奴らだったが…と、目の前の余裕そうな女に若干引き気味になる真志。やはり、『戦闘神』という名は伊達ではないのか。「…あいつら、なんなんだよ。」先ほどの女達を思い出し、うすら寒さを感じる。今までも"悪い妖怪"を見たことはあるが、ああいった邪悪な雰囲気を纏わせた者は初めて見た。「…貧乏神だ。…まぁ、疫病神でもあるな。私達が人に"福"を授ける存在なら、奴らは人に"厄"を与える存在だ。昔からああして、何かにつけて私達に突っかかってくる。―――…私達にとっての、『因縁の相手』ってやつだな。」「突っかかってくるなんてレベルじゃねぇけど…。」そうして階段を登り切ると、そんな真志の発言を表すかのような惨状が広がっていた。木はなぎ倒され、辺りには枝や葉が散らばり、鳥居にはヒビが入っている。「…酷ぇ…。」真志が呆然としていると、毘沙門天が冷静に言う。「…こりゃ片づけが必要だな。―――ちょうどいい、こいつらがいるだろ。」そう言って振り返り、3匹の虎を指さした。敢えて触れてこないのだろう毘沙門天に対して、真志から切り出す。「…聞かねぇのかよ。」「あ?」「こいつらのこと…。」「お前の力を考えたら、何ら不思議じゃない。」なんてことなく言う毘沙門天。妖怪と交流を持ち、町の異様な雰囲気を感じ取れる真志であれば、狛犬―――ならぬ、狛虎を"使役"するなど容易いだろうことはわかりきっていた。「さっき小百合が言っていたこともあるしな。…大方、こいつらと一緒に妖怪退治でもしたんだろう。」「…俺もガキだったから…。…無謀だったんだよ。こいつらがいたからなんとかなったものの…。」そう言って、撫でてほしそうに近寄ってきた狛虎の頭を撫でてやる。虎は気持ちよさそうに目を細めた。それをみて微笑む真志。「…こいつら、昔からの友達なんだ。でも、どうせ他の奴には見えないから…誰にも教えたことなんてなかった。」「…狛虎は普通の人間には認識することはできないからな。例えば私達天人は、民が認識できる存在でいなきゃいけないわけだが…。こいつらは違う。あくまで神社を守護する存在で、そもそも人と関わる必要がない。」「…そうか…。」「本来は2匹とも、この石像の如くここにいるべきところだが―――…どうやら阿形の方は、随分とお前に懐いているようだな。」『阿形』と呼ばれた方の虎は、先ほどから真志に頭や体を擦り付けている。「あぁ…いつもこいつだけ付いてくるんだよ。代わりに、って言っちゃなんだが、吽形にはいつもここで番をしてもらってる。皆出払って家を空けるし、賽銭泥棒やら強盗やらが来ることもあるからな。」「本来はそうあるべきだが…まぁ、いい。今回はそのおかげで助かったしな。」そう言って、傍らにおずおずと来た吽形の頭を撫でてやる毘沙門天。異変に気付いた吽形が思念伝達により阿形に伝え、阿形が真志に伝えたのだった。「…ところでお前ら、昨日一昨日と私の前に一切姿を見せなかったな。」気配はあったものの、悪いものではなかったから放っておいたが…。と、どこか責めるような物言いに、「…こいつら人見知りだからなー…。」とフォローを入れる真志。それが今や撫でてもらいながらうっとりとしている。なんと単純なことか。それを見た毘沙門天の使者である虎が、嫉妬したように身を乗り出してきた。「悪い悪い。」そう言って微笑みながら相棒を撫でてやる毘沙門天。「…お前ら、ありがとうな。」毘沙門天が、仏の如く優しい笑みを浮かべた直後だった。「―――それはそれとして、だ。」急にキリと表情を引き締める。真志はその顔をみて、ざわ、と胸騒ぎを覚えた。「労働の時間だ。」突然の無慈悲な言葉に、3匹の虎と真志は「!!」と雷に打たれたような衝撃を受ける。その後は、片づけに奔走する2人と3匹であった。町内会のイベントに参加した後、買い物をしてきた両親が帰宅する頃には、境内は綺麗になっており、落ち葉の山と丸太の山ができていた。1人と3匹はへとへとの様子で座り込み、毘沙門天はベンチで煙草をふかしているのだった。

「全然見つかりませんね…。」今日も今日とて毘沙門天を捜索していた七福神だったが、見つけることは出来なかった。全員が集まる居間で、お茶の入った湯飲みを持ちながら、ため息をこぼす布袋。「やっぱり、天からの捜索は限界があるわよ、寿―ちゃん。」とにかく四六時中、船を動かしながら気を張り巡らせて捜索したが、何も成果は得られなかった。「ふむ…。」考え込むように手を顎に持っていく寿老人。「…毘沙、大丈夫かなぁ…。」心配そうに俯く弁財天。「そもそもさー、本当に落ちたのかな。」大黒天は椅子に座り、頭の後ろで手を組みながら言う。「敵に襲われて捕まってる可能性だってあるだろ。それか、もう殺られちゃったとか。」「大黒。」恵比寿が注意するかのように名前を呼ぶと「もしもの話だよ。」と大黒天は返す。彼女の言葉に静まり返る一同。「―――…現実問題として、毘沙門天がそうただでやられるとは思えない。鈍っているとはいえ、奴は腐っても戦闘神で、四天王最強を謳われた奴だ。そして甲板のどこにも、争った形跡や、血の跡等はなかった。」「そもそも襲撃があったなら、私達の誰もが、長時間気づかなかったなんておかしいよね。毘沙門天だって、気づかない筈が無い。」「…仮に大黒の言う内容がそうだとしても、敵の目的がわからないじゃない。人質だったら、私達に交渉の材料でも出してくるんじゃない?」「目的も何も、単純に私達のことを憎んでる輩なんて大勢いるだろ。隙あらば寝首は掻きたいと思うだろうし。…それに、余程上級の妖怪や神やらなら、気配を消すことだって出来る。連れ去って殺す、なんてことも―――」「思いついた!」突如、重い空気をぶち壊すように弁財天が大声を上げる。「地上に降りて、民達に聞いてみようよ!もし毘沙が本当に落ちちゃったなら、『人が空から落ちてきた!』なんて話、ほっとかないと思わない?」再び沈黙が訪れる。それはきっと、この中のメンバーが少しでも考えたことがあるかもしれない。だがそれを提案しなかったのは…。―――一番最初に口を割ったのは恵比寿だった。「…確かに、今の地上は情報網が発達してるって言うけど…。」恵比寿は前に知り合いから、『テレビ』や『パソコン』なるものがあるということを教えてもらっていた。電波を通じて、遠くにいる不特定多数の誰かへ情報を伝達することが可能らしい。だが、皆その判断をどこか渋っている。「危険だと思うね。いろいろと。」「…今の民は、信仰がないどころか、私達の存在も信じてないとかいうし…。」「妖の存在も不安ね。私達が降りれば、きっとすぐにでも居場所がバレるわ。」「近年我々の力が落ちてきているのも事実だ。襲われでもしたら…。」「『降臨禁止令』も、ありますしね…。」布袋のその一言で再び空気は重くなる。皆、考え込むようにして、目を瞑った。この150年間、地上に降りられなかった最も大きな理由はそれだ。天上―――そして、"あの"明王達からも固く禁じられてきたほどの確固たる命令。―――未だその命が解かれていない以上、一天人達の軽率な行動で、それを破るわけにはいかない。どんなお咎めがあるかもわからない。皆、思い思いに思考を巡らせる。やがて判断を委ねるように、皆寿老人を見た。「寿老人。」弁財天が、強い意志を篭めた目と、言葉で見つめると、それを感じ取ったように寿老人は目を開く。「…なりふり構ってはいられないだろう。奴がいなくなってもう3日だ。手がかりがない以上、思いつく限りのことをすべきだ。」それは、「地上に降りて捜索する」という方針を指していた。「一応、帝釈天とかに許可取ろうか?」「いや…。今回は独断で行く。」「おっ。珍しいねー。ルールにうるさい寿老人が。」「許可が下りるのを待っていては時間がかかるだろうし、そもそも許可が下りるかもわからないからな。毘沙門天の身の安全を最優先にする。」その寿老人の判断に対し、抗議する者は誰もいなかった。「今日はもう遅い。明日から行動を開始する。」


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