次の日の朝。夜中から降り続く雨が、未だ止まずにいた。「…ここか…。」傘を差しながら毘沙門天と二人並んで、ビルの前に佇む真志。きょろきょろと辺りを見回した毘沙門天は、ビルの裏にある外付けの非常階段に目を付ける。そしてスタスタと敷地に入り歩いていくと、勝手に登り始めた。「えっ!?おい!!不法侵入だろ!!見つかったら―――」慌てて小声で真志が叫ぶ。「んなこと言ってる場合か。」真志の忠告を無視して、どんどんと階段を登っていく毘沙門天。「あ~~~ったく…!!」頭を乱暴に掻くと、真志もその後に続いて行くのだった。――――屋上に辿り着くと、確かにそこには鳥居と社が置いてあった。とても、地元の守り神のものとは思えない程に、簡素で小さいものだ。暫く眺めた後辺りを見回すが、当然だが狐の姿は無い。真志は背後にいた毘沙門天に振り返った。「…そもそもなんで来たんだよ。ここにはいないってわかってるんだろ。」「お前が何か感じないかと思ってな。」「俺が?なんで?」「うるせぇな、いいからどうなんだ。」「うーん…。」そう言って目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませてみる。「……全然。なんもわかんねぇ。」「チッ、使えねぇな。」「んだとコラ!!」「…やっぱり、地道に探すしかねぇか。」そう言って柵の近くまで行き、屋上から辺りを見回す。ざっと見ても気配は感じない。「阿形、まりも、いるか。」「はいっ!ここに!」阿形とまりもが姿を現す。「『穴』は閉じて、妖怪共も大方片づけた。脅威は無いとは思うが…。念のためだ、真志を頼むぞ。」「勿論です!」そうして他の妖怪達と同様に、真志と毘沙門天も別れて探すことになった。
――――「タマ!」真志がまりもや阿形と共に街中を探していると、猫又に遭遇した。「真志…。」「どうだ?そっちは見つかったか?」「いいや、駄目だな。――…ここ何十年と姿を見てねぇんだ。もしかしたらもう…」「…」「…あいつ、気の良い、良い奴なんだよ。人間は勿論、俺達妖怪にも優しい奴だった。…でもだからこそ、耐えられなくなっちまったんだろうな。」「…」真志は、降りやまない雨を見上げながら、未だ姿を見たことのない狐に思いを馳せた。「(…通りで、俺が会ったことないわけだ。)」守り神なんて、いたことさえ知らなかった。知らなかったことに対する罪悪感が、雨粒と共に真志の中に染み込んでいった。
――――路地裏や空き家などの廃墟、空き地など、人気のない場所を探し続ける毘沙門天。その合間にも残党や呪物の処理をする。妖怪達に会えば情報交換をするが、進展は無かった。道中、人々が「あの人…」と呟く声が聞こえたが、毘沙門天は気にすることなく捜索を続けた。そんな時だ。毘沙門天の前に、とある人影が現れた。「!――…小百合じゃねぇか…。」傘を差し、息を切らしながら駆け寄ってきた人物は、小百合だった。確か、真志が朝、小百合に『今日は休む』と伝えていた筈だ。小百合は学校へ行っていた筈だが…真志が気がかりで探しに来たのだろうか?そう思ったが、その顔は心配する様子とは違い、どこか険しく、何かを決意しているように見えた。そこでふと、毘沙門天は思い出す。そういえば昨日真志から、『小百合も妖怪を見ることが出来るようになった』と聞いていた。「…何か知っているのか?」「…っ…」
――――その後2人は、公園にある屋根がついた休憩スペースにやってきた。真志と待ち合わせをして待っている間、雨宿りをしながら小百合の話を聞く毘沙門天。小百合はベンチに座り、毘沙門天は立って柱に寄りかかりながら腕を組んでいる。「…3日前の土曜日に、真志くんと別れた後…喋る狐さんに会ったんです。」手を膝の上で握り締めながら、ぽつりぽつりと出来事を話し出す小百合。
小百合の自宅は高低差の激しい住宅地の低地にあった。真志と別れた後、何やら高所に人か何かの影を見つけると、何故だかその存在が無性に気になったという。胸がざわざわとする感覚を覚えた小百合は、その影が現れた場所へと向かった。家と家の間にある細い石の階段を登り、その場所を目指す。グネグネと曲がったそれはなかなかに段数が多く、登るのもやっとだ。息を切らしながら階段を登り切ると、そこには廃れた公園があった。かつては町を一望できる展望公園として市が整備した場所だったが、住宅地から少し離れた場所にあるということもあり、利用者の数が少なかった。今や手入れもされずに荒れ果て、人が立ち入ることはなくなっていた。以前親に聞いた話だと、小百合自身も幼少期にここでよく遊んでいたらしい。古めかしく消え入りそうな電灯しかないため、公園内は暗く、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。その展望公園の奥―――柵の傍のベンチに、その影はいた。その影に近づくにつれて、ちらつく電灯の明かりがその姿を映し出し、全容が明らかになった。それを見た小百合は驚愕した。「えっ…!?」小百合が思わず出した声に対し、その影は咄嗟に振り返った。それは、狐だが、狐に近い何かだった。「…お前…!俺が見えるのか…?」「えっ!?喋った!?」見えるだけではなく、声も聞こえるのか、と狐側の方も驚く。「あっ!えと、み、見えるし、声も聞こえるよ…!」律儀に狐の問いに答える小百合。こういう狐もいるのか、とその異様な容姿を特に気にすることもなかった。それよりも、『喋る狐』と出会えた感動の方が大きいようだった。「す、すごい…私、喋る狐さん初めて見た…!」顔の前で手を合わせながら、キラキラとした目で狐を見る小百合。そんな小百合の反応に肩透かしを食らう狐。"喋る狐がこの世にいる"という非常識なことをあまりにあっさりと受け入れる、小百合の純粋さと素直さが逆に心配になった。そもそもなんで…と狐が考える。「なんで―――…あぁ、そういうことか…。」何かに気づき、一人納得したように呟く狐。「ねぇ、狐さん、どこから来たの?」わくわくとしながら狐に近づき、屈んで問いかける小百合。その距離の近さにギョッとする狐。「おいっ!!無暗に近づくな!!お前には危機管理ってもんがねぇのか!?」何故かぷりぷりと怒り出す狐。「俺が害のあるやつだったらどうするつもりだ!」「え?本当に悪い子だったらそんなこと言わないでしょ?」「!」「それに、こんなに可愛いし!」「お前なぁ…。」「ねぇ、私小百合っていうの!あなたのお名前は?」「名前なんかねぇ!」「野生の狐さんってこと?」「やせ…お前なぁ…!」「ね、ねぇ…撫でてもいいかな…?さっきから我慢してたんだけど…も、もう可愛くて…」「駄目だ!調子に乗るな!!」そう言って顔を反らす狐。その狐の拒絶反応に、「そっかぁ…。」としゅんと落ち込む小百合。視線だけ動かし、小百合に声をかける狐。「………しょうがねぇな…。」そう言って頭を差し出す狐。「わっ!ほんと!?」「俺の気が変わらねぇ内にだ!」「ありがとうっ!!」そう言って頭を優しく撫でる小百合。「わあっ…ふわふわ…」「…」その優しく暖かな手は、狐にとって久々に感じた感触で、心までぽかぽかしてくるような気がした。「終わりだ!」「えぇ~」そう言ってばっと小百合から距離を取る狐。「ったく…そもそもなんでこんな時間に、ガキがこんなところに来やがったんだ。」「なんだか、呼ばれた気がして。」「!」「…っていうのは言い過ぎかもしれないけど…なんだか、ここに来た方が良いような感じがしたんだよね。…狐さんが、私を引き寄せてくれたのかな!」そう言ってえへへと笑う小百合を見て、何か心の中で感情が渦巻く感覚を覚える狐。「…ッいいからさっさと帰れ!夜も遅い、女の一人歩きは危ないし、親も心配するだろうが!」「わっ…すごくまともなこと言ってる…。」「仕方ねぇから家まで送ってやる!お前家はどこだ!」「しかもすごく優しい…。」そうして狐が家まで送ってくれることとなった。「ねぇ、明日も遊びに行ってもいい?」「来るなっ!!」「駄目なの…?」またしてもしゅんとなる小百合に、狐は再び葛藤する。「………どうせ、その内来なくなるんだろ。」絞り出したような言葉を、小百合は聞き逃さなかった。「来るよ!」「!」「もし狐さんが来てほしいって言うなら、私は何回でも行くよ!」「なっ…来てほしいなんて言ってないだろ!」「それか、どうせならうちに来る?」「いかねぇよ!!」「お母さん、犬とか猫でも飼おっかって話してて…狐でもいいよね?」「おいっ!勝手に話進めるなっ!!ていうか犬とか猫に対して、狐って全然違うだろうが!!」そんな風に騒がしく会話をしているうちに、家に辿り着いた。「ありがとね、狐さん!」玄関前の柵に触れながら狐に振り替える小百合。「…いいか。俺の存在は誰にも言うなよ!」「あ、―――…わ、わかった!そうだよね、喋る狐さんなんて、他の人が放っておかないもんね。」人に話したら捕まってしまうかもしれない。「またね、狐さん!」そう言って笑顔で手を振る小百合。狐は何も言わず、小百合が家の中まで入っていくのを見届けると、踵を返して元の場所へと帰っていった。
――――次の日の日曜日、外へ買い物に出ていた小百合は、町中で妖怪達を見かけた。「えっ!?あれっ!?」びっくりして思わず気づかないフリをする。通り過ぎた後にちらりと振り返り、妖怪達の後姿を見た。周りの人たちは、彼らの存在に全く気付いていない。「(…これって、もしかして…)」真志の顔と、昨日出会った狐の顔と、その台詞が蘇る。
――――「狐さんっ!!」「!?」すぐさま展望公園を訪れると、そこには昨夜と同じく狐がベンチに座っていた。「お前っ…!また来たのか!?」狐に構わず、詰め寄る小百合。「狐さんって、ただの話せる狐さんじゃなかったの!?」「はぁ…?」これまで妖怪を自分の目で見たことが無かった小百合は、狐が『妖怪』や『神』等の類ではなく、ただの"動物の狐が喋ったもの"だと思い込んでいた。その小百合の言葉にしばしぽかんとする狐。だが、少しして、「鈍いにもほどがあるだろ!」と、思わず吹き出して笑ってしまった。「だから昨日、『見えるのか』って言ったんだ…。」大真面目に呟く小百合にますます笑ってしまう狐。「それくらいわかるだろ!」その後もけらけらと笑う狐だった。――――狐の隣に座り、風を感じながら青空と町を眺める小百合。「良い天気だね~。」今日は天気が良く、気温もちょうどいいポカポカ陽気だった。なんでこいつここで落ち着ているんだよ…と思いつつも、誰かと一緒に過ごす穏やかな時間は久々で、狐も思わずのんびりとしてしまった。ふと、狐は小百合の手荷物に視線を移した。「…ところでそれ、何持って来たんだ?」「これ?狐さんが食べるかなと思って、りんご持ってきたの。」カバンの中から、先ほど購入してきたのだろうりんご二つと、ご丁寧に自宅から果物包丁と紙皿まで持ってきていた。「お前わざわざ…。」それを見て何か思うところのある狐。慣れた手つきでナイフでリンゴを切る小百合の様子に、どこか懐かしさを感じる。「はい!…いつもの癖でうさぎさんにしちゃったけど…どうぞ!狐さんにうさぎ…とは思うけど。」そう言ってウサギの形にきったリンゴを皿に乗せて、差し出してくる小百合。それを見て躊躇う狐。「…俺は…」「あ、…りんご嫌いだった…?」少し残念そうな顔をする小百合を見て、狐はりんごに齧りついた。「…!」久々に口にした果実は甘く、じんわりと口の中に蜜が広がり、美味だった。りんごにがっつく狐の様子を見て、嬉しそうに笑う小百合。そして狐もまた、嬉しそうな小百合の様子をこっそりと見ていたのだった。――――「そういえば、狐さんって妖怪…?あ、でも狐さんっていうと、神様とか?」食べ終わり、満足そうに口元を舐める狐に話しかける。「…まぁ、いいだろ、そこは。」何か言いたくないのか、口を濁す狐。小百合はそれを察してか、話題を変えた。「やっぱりそういう存在ってことは、長生きなの?」「まぁな。1300年くらいは生きてるか。」狐は自慢げに笑う。「そんなに!?」「おうよ。だからお前のずっとずっと先輩だぜ。」「そうだよ…!人生の大先輩だよ!」そこから狐の昔話が始まった。小百合も興味津々と言う様子で、話を前のめりに聞く。そんな小百合の姿勢に狐も気を良くしたのか、大昔はこの辺りは山だっただの、小さな集落しかなくて人も貧しく少なかっただの、それでも人も妖怪もうまく共生していただの、狐は楽しそうに、嬉しそうに、当時の様子を語った。「狐さんは、ずっと昔からここにいるお稲荷さんなんだね。」「ぐっ…」話の流れで自分が神だったこと、人々から大事にされていたと口を滑らせた狐。「…まぁ、元は豊作を祈る神だったからな。」「元は?」「―――…まぁ、俺のことはいいんだよ。」狐は突然話を遮って、小百合に向き直る。「そういえばお前、いつも一緒にいる友達いるだろ。」「!え、いつもって…真志くんのこと…?狐さん、知ってたの?」「当たり前だろ。…お前にとって俺は昨日初めて会った奴だろうが、俺はずっとずっと昔からここにいたんだ。勿論、お前のことも昔から知ってた。」「えっ、私のことも!?」「あぁ。お前がガキの頃からな。」「!―――…そうだったんだ…。」ふと、その事実が胸の中で棘のように刺さる小百合。自分からは人が見えるが、人からは自分が見えない。それはとても寂しいことだったんじゃないか、と小百合は思う。真志の傍にずっといたからこそ、それが気がかりになる小百合。そして自分が狐のことを見えなかったことに、少しの罪悪感を覚える。そこでふと気づいた。「…そういえば、真志くんとは知り合いじゃないの?」妖怪が見えて、妖怪の知り合いが多い真志と狐が知り合いではないことに違和感を覚えた。「…あぁ。ずっと避けてたからな。」「えっ…」「だから今も、『そいつに俺のことは絶対に言うな』って言おうとしたところだ。」「…どうして?」小百合の問いに、狐が黙りこくる。そして重い口を開くように呟いた。「…俺は、人が嫌いだからだ。」「…!」昨日からの態度と放った言葉、そして先ほどから何か話したくなさそうな内容があることと、関係しているのだろうか。大昔の話は楽しそうにするが、それから後のこと――――近代の話、特に、最近の人々の話は狐からは出てこなかった。空白の過去に何かあったのだろうか。どうして?と聞くのは簡単だったが、聞いて教えてくれそうな様子ではなかった。それどころか、それを質問すること自体が、狐を傷つけるような気がして何故だか怖かった。ただその代わりに、小百合は思ったままの言葉を投げかける。「…私は、狐さんが見えるようになって良かったと思うよ。」「!」「こうして一緒に話せるんだもん。…今まで、顔を覚えるくらい、私のこと見守っててくれたんでしょう?」「…!」その言葉に顔をそむける狐。「…別に、見守ってたわけじゃ…。」「…とにかくね、狐さんと会えたことが、私は嬉しいよ。もしこれが毘沙門天さんのおかげなら、私、本当に感謝してるの!」「…」「…ずっと傍で、真志くんを見てたけど…『見えない』こと自体が罪なんじゃないかと思ってたの。『見えない』『知らない』ことで、相手を傷つけてるんじゃないかってことが怖かったの。…でも、今は違うから…。こうして話せるんだもん、狐さん、私で良ければ…これから仲良くしてほしいな。…昨日言ったように、何回でも会いに来るから!」「…」「…それにね、そんな状況なのに…私と話してくれたり、親切にしてくれたり…そんな気持ちも嬉しかったんだよ。…でもね、"人"なんて大きな括りで見ないで。私達は、一人一人がそれぞれ違うから。」そう言って悲しそうに笑う小百合の表情に、狐の瞳が揺らぐ。「…あのね、真志くん、優しくて良い子なんだよ。きっと真志くんも、狐さんと友達に―――」"友達"というワードが聞こえた途端、狐は拒否反応を示した。「…やめてくれ。」「―――…」そしてベンチから降りると、息を呑んで固まる小百合に背を向けた。「今日はもう帰ってくれ。」そのまま狐はどこかへと立ち去ってしまった。「…」その後ろ姿を心配そうに眺める小百合だったが、声をかけることは出来なかった。その後、真志にチャットで『妖怪が見えるようになった』ことを話そうと思ったが、話の流れでうっかり狐のことも話してしまいそうになったため、言うことはできなかった。
――――月曜日の夜も、狐に会いに来た小百合。「良かったぁ!狐さんいたぁ!大丈夫?」いなくなっていたらどうしようかと思っていたが、いつもの場所に狐はいた。「…性懲りもなくまた来たのか、お前…。」そして小百合は、真志から聞いた町の現状を狐に話した。近頃、この町の妖怪達の数が増えていること、呪物というものが辺りにばら撒かれていること、『異所通道』なる『穴』が開いている可能性があることを伝えた。「…なんだか今、大変みたいだね。狐さんは知ってた?」「…」ただ黙っているだけで、YesともNOとも言えない反応をする狐。小百合は構わず続ける。「それでね、狐さんも大丈夫かなと思って…。」「…はっ、」小百合の言葉に狐は少し笑うと「…お前達人間だって危険だろうが。」「えっ?…あ、そっか…。」言われてみれば、という反応をする小百合。「お前なぁ…。」と狐は呆れる。だが、自分達のことよりも狐の存在を心配してくれた小百合の優しさが身に染みていた。「…ねぇ、狐さん。昔からここに住んでるなら…何か知らない?」「あぁ?」「…毘沙門天さんも今、色々頑張ってくれてるみたいなんだけど…。悪い妖怪を倒してくれたり、その呪物っていうのを壊してくれたり…って。」「…」「…心配なんだぁ…。…私にも、何かできることないかなぁ…。」「…とにかく、危険なことに首は突っ込まないことだな。」狐に諭され、その日も早く帰宅した。
――――火曜日の朝、真志から電話が来た。『ごめん、朝っぱらから…。昨日はちょっと夜遅くてさ。今、少しだけ時間大丈夫か?』「うん、大丈夫だよ。」『今日さ、ちょっと学校休もうと思うんだ。』「!」そしてそのまま、昨日の話を聞いた。その内容を聞いている内に、あることを察する小百合。真志には黙って自分も学校を休み、急いで狐の元へ行く。息を切らしながら展望公園に行くと、そこにはいつものように狐がいた。狐は様子の違う小百合に気づくが、それに対して動じるでもなく、淡々と出迎えた。小百合はゆっくりと狐のもとへ歩いて行った。「…もしかして、狐さんって…この町の『守り神』なの…?」「…」狐は何も言わない。何も言わずに、小百合の方をただじっと見つめている。どこか苦しそうな表情を浮かべる小百合。どうにかしなければと焦る気持ちと、狐自身の気持ちと、狐がその選択をした心情を思いやる気持ちから、言葉ばかりが先走る。「…人間は、そうかもしれないけど…、あなたの仲間達だって、皆危ない目に遭ってるんだよ?…このまま、放っておいていいの…?」狐は何も言わない。小百合もこんなことを言いたくは無かった。大切にしていた人間達に忘れられ、傷つけられて、そうすることを選んだ狐を、人間側が強制する権利は無いと思ったからだ。千何百年も頑張って土地を守ってきた彼に、もしかしたら数百年もの孤独を感じたかもしれない彼に、こんなお願いをしたくはなかった。それでも、知ってしまったからには小百合は言わなければいけなかった。「狐さんなら、『穴』を塞げるんじゃないの…?」「…俺は、もう何もしねぇ。」小百合の問いかけに即答で返す狐は、小百合に背を向ける。完全に『拒否』の姿勢だった。そんな狐に、スマホを取り出して画面を見せる小百合。「…毘沙門天さんも、ずっと頑張ってくれてるんだよ。…あなたの気持ちもわかるけど、」「俺の気持ちの何がわかるってんだよ!!」「!!」そう言ってスマホを叩き落とす狐。落ちたスマホは、地面の上を跳ねた後、砂埃を上げて滑る。はっとバツの悪そうな顔をすると、小百合の顔を一瞬伺う狐。「…!」今にも泣き出しそうな小百合の顔を見て、狐は立ち去ろうとする。少し離れた場所で立ち止まると、こちらも向かずに一言だけぼそりと呟いた。「…ともかく、俺は知らねえぞ。」そしてそのまま立ち去ってしまった。
「…私、なんでだろう…。狐さんの過去なんて知らない筈なのに、…まるで知ってるみたいな気持ちになって…。」時は戻り、毘沙門天に全てを話した小百合は、ぽろぽろと涙をこぼす。そんな小百合の隣に座る毘沙門天。「…お前は優しく感受性が強いから、奴の気持ちが伝わりやすいんだろう。」そう言って優しく背中をさすってやる毘沙門天。「気持ち…?」涙でぬれた瞳で毘沙門天を見上げる小百合に、慈しみの目を向ける毘沙門天。「感受性の強い人間は妖怪や神等、そういった奴らの気持ちが流れ込みやすいんだ。」毘沙門天に言われ、胸に手を当てて、自分が感じている感情と向き合う。―――一言で言えば、『葛藤』…。少なくとも、今起きていることに対して、何も思っていないということはないようだ。その中には、人に対する思いやりの気持ちや、未練といった感情も残っているように思える。手を下ろして、今度は、先ほど自分が狐に投げかけた言葉を思い出す。「…私、狐さんを責めるようなこと言っちゃった…。」「…大丈夫だ。きっと奴なら、わかってくれる。」「…本当に…?」「…お前はずっと、私や他の妖怪達のことを思いやってくれていた。同時に、狐がこのまま人を避けて、孤独に苦しみ続けることを良いとは思っていなかったんだろう。…そういうお前の優しさや人柄、葛藤というのは、奴にも伝わっている筈だ。…それに、ついこの前までこの土地を守ってきてくれた奴だ。その上まだ居着いているということは、完全に愛想をつかしたわけではないんだろう。」「…」「…大丈夫だ。」そう言って優しく微笑みながら、小百合の頭を撫でる毘沙門天。「…っ…」「小百合!?」そうしていると、真志が駆け寄ってきていた。小百合の様子に焦る真志。「何があった…!?」「大丈夫だ。少なくとも、お前が考えているようなことは起きていない。」「は…?」大方、妖怪に襲われたとでも思ったのだろう。「…さて、落ち着いたら行くぞ。」そう言うと立ち上がる毘沙門天。「は?どこに…」「『狐』の元だ。」「!」「…でも、どこに行っちゃったのかわからないよ?」狐が展望公園から去っていく様子を、小百合は見ていた。「…大方予想はつく。」
――――毘沙門天達3人は、再び例のビルの屋上を訪れていた。3人の視線の先には、鳥居の前で背を向けながら佇む狐の姿が。「…お揃いか。」顔だけ振り返る狐は、その目に毘沙門天と小百合、真志の姿を捉える。「…ごめんね。…話しちゃって…。」申し訳なさそうに俯く小百合を一瞥する狐。「…お前も本当に懲りねぇ奴だな…。」小百合は泣きそうな顔を上げ、一歩出て狐と目を合わせる。「…っごめんね、狐さん…。…私、初めに謝らなきゃいけなかった…。人として、…あなたのことを傷つけてきたことに対して…。」「…」そして、溢れるように心情を吐露する小百合。「……私ね、さっきはああいう言い方しちゃったけど…、狐さんが、このままじゃ良くないと思って……先走っちゃったの…。…私、狐さんが、人を信じられないことが悲しくて…。このまま、人との繋がりを避けて…他の妖怪の子達との繋がりもなくして…、町や皆が傷ついていくのを、ただ一人で見てるだけなんて…狐さんにとっても、きっと良いことじゃないって思ったの。…だって、ずっとずっと、土地の守り神として頑張ってきた狐さんだもん…。…本当は、狐さんだって、このままでいいなんて思ってるわけないって、…勝手に思っちゃったの。」小百合の言葉をただ黙って聞いている狐。「…あのね、だから…私達と一緒に戻ろう?…皆のところに…。」そう言って小百合が狐のもとへ近づき、しゃがみ込んで手を差し伸べる。だが、狐は動じない。それを見た真志が歩き出す。そして、小百合の隣に座り込んだ。「…ずっと、俺達人間が、悪かったな。」その真志の言葉にぴくりと狐の耳が動く。「お前が感じた孤独は、きっとたった十数年生きただけの俺達には計り知れねぇんだろうな。」「…」「ずっと、この町を守ってきてくれてありがとう。お前のおかげで、今の俺達がある。」「…!」その言葉に、思わず振り返る狐。その時、初めて狐は真志と目を合わせた。真志は優しく微笑みかけた。「小百合は、お前と仲良くなりたいと思ってる。…そして俺もだ。人間が信じられないって言うなら、まずは俺達と友達になってくれ。…俺は、お前を裏切ったりしない。約束する。」そう言って、小百合と同様に狐に手を差し出した。「…!」その時、狐の脳裏に嘗ての記憶が蘇る。
――――遥か昔、平安時代中期。かつてここにあった村で、人々に豊穣神として可愛がられ、大切にされてきた狐は、もっと人々の力になりたいと思っていた。そんな時に出会ったのが、民間陰陽師だった。良くない雰囲気を感じ取ってこの村を訪れていた彼は、ぬらりひょんや狐達と知り合う。そして、この土地が妖怪を集めやすい性質があること、『穴』の開きやすい環境であることを知る。「…ここにきて僅かばかりであるが、…私は、この村が好きなんだ。」山の上から陰陽師と共に村を見下ろす狐。「…あぁ。俺もだ。」「人々は暖かいし、妖怪や神とも上手く共生している。…とても良いところだ。」「そうだな。」「…君は以前、もっとこの村や、人の力になりたいと言っていただろう。…私が君の力となろう。だから、一緒にここを護っていかないか。」「!…良いのかお前。確か別に故郷が…。」「良いんだよ。…それほどまでに私はここに…そしてここに生きる者達に魅了されてしまった。私はこの村で、君達と共に生きる。」「…!」「…それも、君と友になってしまったからかもしれないな。…私と君は友だ。―――…これからも、よろしくな。」そうして差し伸べられた手を、狐は取った。そして、陰陽師が狐に力を与えたことで、狐はその土地の守り神となった。狐は陰陽師や他の妖怪達と共に、悪い妖怪達を退治し、土地に結界を張ることで悪いものを寄せ付けないようにした。人々からは大事にされ、愛し、愛され、それはそれは幸せな時間を過ごした。だがやがて、友であった陰陽師は歳を取り、亡くなってしまう。狐は取り残されたが、仲間の妖怪達と共に、陰陽師の願いを胸にその土地を守り続けた。だがやがて、時代の流れと共に人々は入れ替わり、狐の存在は次第に忘れ去られてしまう。土地開発により山はどんどん切り崩され、かつての村の面影は無くなってしまった。そして、長年自分を祀っていた神社の取り壊しが決まる。神社が機械によって破壊されていく様子を、他人事のように眺める狐。「(…あぁ、もう俺はお役御免ってことなんだな…。)」かつて陰陽師と共に見下ろした場所から、行き交う人々を眺めて不貞腐れる狐。そこにはどこか、誰か自分の存在に気づかないかと言う微かな願いが込められていた。「…!!」ふと、懐かしい気配を感じて振り返る。そこには、幼い男女二人の子供が仲睦まじそうに歩いていた。一目見た瞬間わかった。だが、長年の経験を経た狐にとっては、それすらも期待ではなくなってしまった。人は変わってしまう。例え元は"同じ"人間だろうと、彼とこの子供は全くの別人なんだろうと。そしてその子供の前に姿を現すことはなかった。―――別の日、少女が蝶を追いかけて車道へと飛び出すのが見えた。それに気づいた途端に、狐は少女の首根っこを掴み、安全な場所へと運ぶ。「全く…危ねぇだろうが!」聞こえる筈もないのに叱る。「…!!」少女がこちらを見たかと思って一瞬どきりとしたが、狐の後ろの蝶を見ていただけだった。「…そうか、そうだよな…。」もうきっと、二度と人間と交わることはないんだろう。母親が慌てて少女に駆け寄る様子を遠くから眺めながら、狐は思う。
…そんな狐の前で、かつての少女と少年が、自分の目を見て、話しかけ、手を差し伸べている。少女は、自分に笑いかけてくれた。りんごを食べさせてくれた。「何回でも来る」と言ってくれた。そして少年は、かつてのように、「友達になろう」と言ってくれた。
――――ぽろぽろと涙をこぼす狐。それを見た途端、二人は切ない表情を浮かべる。どうしたらいいかわからなくなるが、涙を止めることのない狐を見て、小百合は咄嗟に傘を放り投げると、その小さな体を抱き締めた。「…!!」「…っ狐さん…。…もう、大丈夫だよ…。…私達がいるから…!」そう言って強く強く抱き締めてくる小百合と、傍に寄り頭を撫でて来る真志に、狐は鳴きながら涙を流すのだった。その光景を見ながら、ふと晴れ間がのぞいていることに気づいた毘沙門天は、空を見上げる。雨は止み、雲の合間から光が差し込んでいた。「…人間も、まだまだ捨てたもんじゃねぇぞ。」優しく微笑みを浮かべながらこぼす毘沙門天の呟きに、傍らに現れたまりもも微笑みを浮かべるのだった。