瑞穂の第一印象は、本人に告げた通りのものだった。『煩くて、わがままで、文句ばっかり言う、いけ好かない奴』―――正直、苦手なタイプだと思った。まあ、私を不審者と思っての言動だったから、そう捉えてしまったのも仕方ないとも言えるが。日本の現代社会において、私のような存在は「おかしな奴」と称して切り捨てるのは当然のことだろう。だが、ビル火災の一件から瑞穂の態度が変わったことで、私の中のあいつの印象も変わった。第二印象は、『変な奴』だった。最初あれだけ私を警戒し疎ましく扱っていたくせに、あの件をきっかけに積極的に接触してくるようになったのだから。話かけてくるだけじゃなく、勉強の教えを請うてきたり、呼び名をつけたがったり、飲食を勧めてきたり――…。挙句、家にまであげてしまう始末。いくら私が”不審”を形に表したような存在だからといって、私が何かしたとしてすぐに警察が動いてくれるとも限らないだろうに。それに、自分や周囲の安全が確認されたからといって、私が同性だからと、そんなにすぐ打ち解けようとするものか?そもそも、私の言葉を疑いはしないのか。正直、よくわからない奴だと思った。たったあの問答だけでこんなに態度を変えるなんて、単純な奴だとも思った。まあ、悪い気はしなかったが。疑われ、鬱陶しがられるよりはましだったからだ。面倒だからな。私の素性を調べようとする質問を投げかけてくることもあったが、大体はなんてことない無邪気な会話で。探るような態度もあまり見せずに、自然体で接してきていた。おそらく、あいつから見た私は『ちょっとおかしいけど何故か助けてくれる年上の女の知り合い』程度の相手となったのだろう。私に対する態度は、徐々に好意的なものに変わっているように感じた。―――だが、そう親しげにされても困る。私だって、どうすべきかまだ意志が固まっていないというのに。そう思う自分がいる一方で、”不審者”に対して話しかけ、屈託のない笑顔を見せる瑞穂に、私は興味が湧き始めていた。
この頃私は、あいつには内緒で、夜限定だが妹の部屋を出入りするようになっていた。なぜそうなったかといえば…成り行きとしか言いようがない。私の存在を知った妹―――豊里が突然私を部屋へ招き入れ、何故か人生相談をし出したのが始まりだ。私から大したことは言えなかったが、当人は満足したらしい。というより、何かきっかけが欲しかっただけのようだ。学校に行くようになったのはもう少し後だが。とにかくそれからというもの、私は豊里の部屋に入り浸るようになった。話をしたり、ゲームをしたり。勿論、あいつに降りかかる不幸の察知も忘れずに。そんな時、ゲームをしている最中に瑞穂の話題になった。そこでここまでの経緯を説明した。「あー…。瑞穂はねー、疑り深いくせに一度信用しちゃうと甘いんだよね。そこがちょっと心配。」流石血のつながった姉妹だと思った。姉のことはよく分かっている。だがそこに関してはお前も人のことは…と思ったが口を噤み、まず聴きたいことを優先した。「お前の姉は、どんな奴なんだ。」「どんな奴?…うーん……なんだろ…。…あぁ、人間らしい奴、って感じ?」「…人間らしい…。」この時、人間についてもよくわからない私に、『人間らしい』とはどういうことか、いまいちわからなかった。突っ込んで聞いてみてもいいかとも思ったが、そこまでのことでもないだろうとそれはやめた。…だがこの数日で、この妹が姉を想っていることはよくわかった。こいつだけじゃない、瑞穂という人間は…家族や友人からも良く好かれていた。それは逆も同じで。この頃の私は、「人間」に大きく悩まされていた。「彼」から課せられた役割、自分の立場を考えた上での本来なすべきこと、重要なポジションにいる人間の瑞穂、日本人、そしてすべての人間――――…。私の中で、それらがぐらぐらと揺れていた。私は、どうするべきなんだ。人間は、この国の人間はどうするべきなんだ。私は何をなすべきなんだ。私の本来の役割とは?様々な問いで頭の中が埋め尽くされる。この頃私は、己の進むべき方向を見失っていた。
そんな最中、瑞穂のテストが返ってきて、「お礼がしたい」と言われた。良い機会だと思った。悩める事柄を、一度にどうにかしてしまおうと思ったのだ。私がこれからどうすべきかを判断し、「瑞穂」を、「人間」を知る、良い機会。ひと月ほど一緒に過ごして、幾分かしっかりした奴だとはわかっていた。だからこいつに意見を求めてみるのも悪くないのでは、とも思うようになっていた。決定までこぎつけられなくとも、何か参考になることを言ってくれればいいとも。そもそも、人間側の意見も聞いてみるべきだったのだ。詳細を話すことはできないが、ぼかして聞くことくらいはできる。そして、あの場所で。あの質問を投げかけた。すると、思っていたよりもずっと多くの答えが返ってきた。勉強を見てきて頭脳は優れてるとは言えないものの、しっかりとした自分の考えを持っていた。そりゃただの一女子高生の言うことであって、専門家のように正確ではっきりとしたものではなかったが、等身大の、本人なりに考えた上での返答だと言うことはよく伝わった。この件で私は、少しこいつを見直した。そして更に、瑞穂の回答は私の考えに変化を生じさせた。人間をどうするべきかの、見解。更には、最後のあの一言が私を思わぬ結論へと誘う。『そりゃ…。人間だし。…私だけじゃないよ。どの人も皆、結構いろいろ考えてるもんでしょ。こういうこととか…。』そうだ。人間には思考がある。こいつのように頭脳がある。一人一人、考えを持っている。ただの肉の塊ではないのだ。そこを歩いてる人間達も皆、それぞれが考えて行動している。他の生物達と同様に。瑞穂の何気ない言葉は、そんな当たり前のことを私に思い出させた。「彼」の主張もわかる。そう至った経緯も理解している。少し前まで、私も“そう”思っていたところはある。だが、「彼ら」だって生命体だ。そんな人間達を、いとも容易く葬っていいのか。瑞穂が言ったように、幸せを求めて各々頑張って生きている人間達を…。そこまで考えて、ふと疑問に思った。―――“これ”は、私が判断を下すべきことなのか?…これまで私は、自分のすべきことばかり考えていた。だが、その必要がないとしたら?そもそも私は当事者ではない。言わば、盤上の駒に過ぎない存在だ。そんな私が決めるべき事柄なのか?―――…結局、決意は固まらなかった。だが、今思うと逆にそれで良かったのかもしれない。疑問に思って良かったのかもしれない。何故なら、別の視点から気づけたからだ。向かうべき終着点を先に見つけていたら、きっと気づけなかった。
スカイツリーに登った日から数日後、私はしくじった。体調が優れないとは思っていたものの、対処のしようがないからと放置していたのが良くなかった。無様にも通り魔如きに腹を刺された上、瑞穂の目の前で倒れる始末。…だが、そんな私を瑞穂は心配してくれた。私の意図を汲み取り、下手な人間との接触を避けてくれた。それだけじゃなかった。空き巣に見せかけた殺人犯に対して、寝込む自分に頼らず、助けを求めずに、己の力でなんとかしようとして。寧ろ庇うようにして犯人に立ち向かった。その上、私が体調を崩した理由を説明すると、同居を提案してきたり。私は、ようやく理解した。こいつは―――秋津瑞穂は、そういう奴なんだと。同時に、今までこいつに向き合うことをしなかった自分を恥じた。私はこれまで、瑞穂という人間を見ようとはしていなかったのだ。人間という大きな括りの中の一人としてしか見ていなかった。瑞穂はずっと、私という個人に向き合い、得体の知れない私を受け入れようとまでしてくれていたというのに。己の役目ばかり気にして、私は瑞穂個人を見てはいなかった気がする。この一連の出来事のおかげで、目が覚めた。三カ月という記憶を辿り――瑞穂の人間性というものを、ようやくここではっきりと理解した。そして――役目など関係なく、瑞穂を守りたい。…心から、そう思うようになった。罪もないのに巻き込まれ、可哀想だという気持ちもあるかもしれない。だがそれ以上に私は、瑞穂個人を気に入ってしまっていた。そのことには、途中からなんとなく気づいていた。正直、絆されている自覚があった。おそらく態度には出ていたかもしれない。それに、こいつは大人ぶってはいるが、やはりまだ幼い。未来ある若者の命を、ただの身勝手で奪っていいものなのか。瑞穂だけじゃなく、それは他の人間達にも言えることだった。瑞穂を通して、人間の本来の姿が見えてきた。『人間らしい』とはこういうことか、とも思った。人間達には大きな可能性がある。未来がある。勿論彼らにも非はある。だが、他の生命と同様、必死に生きているのだ。幸でも不幸でも、一生懸命に生きている。それを、騙すような形で潰していいものなのか。当然、瑞穂一人がどうなったところでそういう結末になるとは言えない。他にも”候補”はいる。だが―――だからこそ、私はこいつを守りたいと思う。瑞穂は、死なせてはならないと。正直なところ、それが正しい道なのかは私にはわからない。だが、あの場所で気づいたように、半端な立場にいる私が判断することではないと改めて思った。瑞穂や周りの人間達を見ていて…これは、人間達と、「彼」が判断すべきことなのだと。それに、瑞穂を生き抜かせることができれば、「彼」の考えも変わるかもしれない。それは、人間達側も同じだ。そうでなくとも、後は当人たちに任せればいいだけのこと。…そもそも、私にはもう無理なことだったのだ。瑞穂と関わり、その家族や、友人たちとも知り合ってしまった時点で。彼らの人柄を知ってしまった時点で。私の今なすべきことは、瑞穂を守る、ただそれだけだ。だから、その意志を明確にするためにも、瑞穂を一先ず安心させるためにも、あの桜の咲く場所で宣言をした。…誓いの意味も込めて。あいつもなかなかいい性格をしている。あんな返答が来るとは予想外だった。だが…私の思いが伝わっているようで、悪い気はしなかった。この頃から、それまでふわふわとしていた何かが、すとんとあるべき場所へ収まったような気がした。明確な目標が定まり、自分が何をすべきかわかったからだ。悩む必要もなくなった。心を決めてからの私は、自分でもわかるくらい素直でいられるようになった気がする。私は、私の目で周りを見られるようになった。瑞穂とも、ちゃんと向き合うようになった。共に暮らすようになって、瑞穂の更に踏み込んだ一面を知ることになる。いつの間にか、もっと瑞穂のことが知りたいと思うようになった。それは向こうも同じなようで。瑞穂は以前、私を信用してくれているとまで言っていた。その信頼に、応えたいとも思うようになってしまっていた。そして私も、もっと人間を信用したくなった。違和感のあった名前も、今やすっかり馴染んでしまっていた。